と、朝から灰色の空の見えていた処に、紫掛かった暗色の雲がまろがって居る。
 同僚の顔を見れば、皆ひどく疲れた容貌《ようぼう》をしている。大抵|下顎《したあご》が弛《ゆる》んで垂れて、顔が心持長くなっているのである。室内の湿った空気が濃くなって、頭を圧《お》すように感ぜられる。今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行った帰りに、廊下から這入ると、悪い烟草の匂《におい》と汗の香とで噎《む》せるような心持がする。それでも冬になって、煖炉《だんろ》を焚《た》いて、戸を締め切っている時よりは、夏のこの頃が迥《はる》かにましである。
 木村は同僚の顔を見て、一寸顔を蹙《しか》めたが、すぐにまた晴々とした顔になって、為事に掛かった。
 暫くすると雷が鳴って、大降りになった。雨が窓にぶっ附かって、恐ろしい音をさせる。部屋中のものが、皆為事を置いて、窓の方を見る。木村の右隣の山田と云う男が云った。
「むしむしすると思ったら、とうとう夕立が来ましたな。」
「そうですね」と云って、晴々とした不断の顔を右へ向けた。
 山田はその顔を見て、急に思い附いたらしい様子で、小声になって云った。
「君はぐんぐん為事を捗《はかど》らせるが、どうもはたで見ていると、笑談にしているようでならない。」
「そんな事はないよ」と、木村は恬然《てんぜん》として答えた。
 木村が人にこんな事を言われるのは何遍だか知れない。この男の表情、言語、挙動は人にこういう詞《ことば》を催促していると云っても好い。役所でも先代の課長は不真面目《ふまじめ》な男だと云って、ひどく嫌った。文壇では批評家が真剣でないと云って、けなしている。一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。
 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。
 木村のためには、この遊びの心持は「与えられたる事実」である。木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質が闕《か》けています、それはnervosite[#「te」の「e」はアクサン(´)付き]《ネルウォジテエ》です」と云った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。
 夕方のあとはまた小降になって余り涼しくもならない。
 十一時半頃になると、遠い処に住まっているものだけが、弁当を食いに食堂へ立つ。木村は号砲《ドン》が鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。
 二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。
「日出新聞社のものですが、一寸電話口へお出《いで》下さいと申すことです。」
 木村が電話口に出た。
「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」
「木村先生ですか。お呼立て申して済みません。あの応募脚本ですが、いつ頃御覧済になりましょうか。」
「そうですなあ。此頃忙しくて、まだ急には見られませんよ。」
「さようですか。」なんと云おうかと、暫く考えているらしい。「いずれまた伺います。何分宜しく。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 微笑の影が木村の顔を掠《かす》めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にしました」なんぞと云って、電話で喧嘩《けんか》を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑の中には多少のBosheit《ボオスハイト》がある。しかしこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい。
 号砲《ドン》が鳴った。皆が時計を出して巻く。木村も例の車掌の時計を出して巻く。同僚はもうとっくに書類を片附けていて、どやどや退出する。木村は給仕とただ二人になって、ゆっくり書類を戸棚にしまって、食堂へ行って、ゆっくり弁当を食って、それから汗臭い満員の電車に乗った。
[#下げて、地より1字あきで](明治四十三年八月)



底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜9月刊
入力:鈴木修一
校正:mayu
2001年6月19日公開
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