かりの物ではない。あれを一層高尚にすれば、政治が大芸術になるねえ。君なんぞの理想と一致するだろうと思うが、どうかねえ。」
木村は馬鹿々々しいと思って、一寸《ちょっと》顔を蹙《しか》めたくなったのをこらえている。
そのうち停留場に来た。場末の常で、朝出て晩に帰れば、丁度満員の車にばかり乗るようになるのである。二人は赤い柱の下に、傘を並べて立っていて、車を二台も遣り過して、やっとの事で乗った。
二人共|弔皮《つりかわ》にぶら下がった。小川はまだしゃべり足りないらしい。
「君。僕の芸術観はどうだね。」
「僕はそんな事は考えない。」不精々々に木村が答えた。
「どう思って遣っているのだね。」
「どうも思わない。作りたいとき作る。まあ、食いたいとき食うようなものだろう。」「本能かね。」
「本能じゃあない。」
「なぜ。」
「意識して遣っている。」
「ふん」と云って、小川は変な顔をして、なんと思ったか、それきり電車を降りるまで黙っていた。
小川に分かれて、木村は自分の部屋の前へ行って、帽子掛に帽子を掛けて、傘を立てて置いた。まだ帽子は二つ三つしか掛かっていなかった。
戸は開け放して、竹簾《たけすだれ》が垂れてある。お為着《しき》せの白服を着た給仕の側を通って、自分の机の処へ行く。先きへ出ているものも、まだ為事《しごと》には掛からずに、扇などを使っている。「お早う」位を交換するのもある。黙って頤《あご》で会釈するのもある。どの顔も蒼《あお》ざめた、元気のない顔である。それもそのはずである。一月に一度位ずつ病気をしないものはない。それをしないのは木村だけである。
木村は「非常持出」と書いた札の張ってある、煤色《すすいろ》によごれた戸棚から、しめっぽい書類を出して来て、机の上へ二山に積んだ。低い方の山は、其日々々に処理して行くもので、その一番上に舌を出したように、赤札の張ってある一綴《ひとつづり》の書類がある。これが今朝課長に出さなくてはならない、急ぎの事件である。高い方の山は、相間《あいま》々々にぽつぽつ遣れば好い為事である。当り前の分担事務の外に、字句の訂正を要するために、余所《よそ》の局からも、木村の処へ来る書類がある。そんなのも急ぎでないのはこの中に這入っている。
書類を持ち出して置いて、椅子《いす》に掛けて、木村は例の車掌の時計を出して見た。まだ八時までに十分ある。課長の出勤するまでには四十分あるのである。
木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板《のりいた》の上の糊を附けて張って、それに何やら書き入れている。紙切れは幾枚かを紙撚《こより》で繋《つな》いで、机の横側に掛けてあるのである。役所ではこれを附箋と云っている。
木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談《じょうだん》ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。
為事が一つ片附くと、朝日を一本飲む。こんな時は木村の空想も悪戯《いたずら》をし出す事がある。分業というものも、貧乏|籤《くじ》を引いたもののためには、随分詰まらない事になるものだなどとも思う。しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だと諦《あきら》めているというfataliste《ファタリスト》らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事は罷《や》めたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの下で著作をするように、朝から晩まで著作をすることになったとして見る。この男は著作をするときも、子供が好きな遊びをするような心持になっている。それは苦しい処がないという意味ではない。どんなsport《スポオト》をしたって、障礙《しょうがい》を凌《しの》ぐことはある。また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。自分が手に持っている道具も、真の鉅匠《きょしょう》大家の手に渡れば、世界を動かす作品をも造り出すものだとは自覚している。自覚していながら、遊びの心持になっているのである。ガンベッタの兵が、あるとき突撃をし掛けて鋒《ほこ》が鈍った。ガンベッタが喇叭《らっぱ》を吹けと云った。そしたら進撃の譜《ふ》は吹かないで、reveil[#「re」の「e」はアクサン(´)付き]《レウエイユ》の譜を吹いた。
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