文学者である。
役所では人の手間取のような、精神のないような、附けたりのような為事をしていて、もう頭が禿《は》げ掛かっても、まだ一向幅が利かないのだが、文学者としては多少人に知られている。ろくな物も書いていないのに、人に知られている。啻《ただ》に知られているばかりではない。一旦《いったん》人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へ戻されて、文学者として復活している。手数の掛かった履歴である。
木村が文芸欄を読んで不公平を感ずるのが、自利的であって、毀《そし》られれば腹を立て、褒められれば喜ぶのだと云ったら、それは冤罪《えんざい》だろう。我が事、人の事と言わず、くだらない物が讃《ほ》めてあったり、面白い物がけなしてあったりするのを見て、不公平を感ずるのである。勿論《もちろん》自分が引合に出されている時には、一層切実に感ずるには違ない。
ルウズウェルトは「不公平と見たら、戦え」と世界中を説法して歩いている。木村はなぜ戦わないだろうか。実は木村も前半生では盛んに戦ったのである。しかしその頃から役人をしているので、議論をすれば著作が出来なかった。復活してからは、下手ながらに著作をしているので、議論なんぞは出来ないのである。
その日の文芸欄にはこんな事が書いてあった。
「文芸には情調というものがある。情調はsituation《シチュアシヨン》の上に成り立つ。しかしindefinissable[#「de」の「e」はアクサン(´)付き]《アンデフィニッサアブル》なものである。木村の関係している雑誌に出ている作品には、どれにも情調がない。木村自己のものにも情調がないようである。」
約《つづ》めて言えばこれだけである。そして反対に情調のある文芸というものが例で示してあったが、それが一々木村の感服しているものでなかった。中には木村が、立派な作者があんな物を書かなければ好《い》いにと思ったものなんぞが挙げてあった。
一体書いてある事が、木村には善くは分からない。シチュアシヨンの上に成り立つ情調なんぞと云う詞《ことば》を読んでも、何物をもはっきり考えることが出来ない。木村は随分哲学の本も、芸術を論じた本も読んでいるが、こんな詞を読んでは、何物をもはっきり考えることが出来ない。いかにも文芸には、アンデフィニッサアブ
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング