ルだとも云えば云われそうな、面白い処があるだろう。それは考えられる。しかしシチュアシヨンとはなんだろう。昔からドラアムやなんぞで、人物を時と所とに配り附けた上に出来るものを言うではないか。ヘルマン・バアルが旧い文芸の覗《ねら》い処としている、急劇で、豊富で、変化のある行為の緊張なんというものと、差別はないではないか。そんなものの上に限って成り立つというのが、木村には分からないのである。
木村はさ程自信の強い男でもないが、その分からないのを、自分の頭の悪いせいだとは思わなかった。実は反対に記者のために頗《すこぶ》る気の毒な、失敬な事を考えた。情調のある作品として挙げてある例を見て、一層失敬な事を考えた。
木村の蹙めた顔はすぐに晴々としてしまった。そして一人者のなんでも整頓《せいとん》する癖で、新聞を丁寧に畳んで、居間の縁側の隅に出して置いた。こうして置けば、女中がランプの掃除に使って、余って不用になると、屑屋《くずや》に売るのである。
これは長々とは書いたが、実際二三分間の出来事である。朝日を一本飲む間の出来事である。
朝日の吸殻《すいがら》を、灰皿に代用している石決明貝《あわびがい》に棄てると同時に、木村は何やら思い附いたという風で、独笑《ひとりわらい》をして、側の机に十冊ばかり積み上げてあるmanuscrits《マニュスクリイ》らしいものを一抱きに抱いて、それを用箪笥《ようだんす》の上に運んだ。
それは日出新聞社から頼まれている応募脚本であった。
日出新聞社が懸賞で脚本を募ったとき、木村は選者になった。木村は息も衝《つ》けない程用事を持っている。応募脚本を読んでいる時間はない。そんな時間を拵《こしら》えるとすれば、それは烟草休《たばこやすみ》の暇をそれに使う外はない。
烟草休には誰《たれ》も不愉快な事をしたくはない。応募脚本なんぞには、面白いと思って読むようなものは、十読んで一つもあるかないかである。
それを読もうと受け合ったのは、頼まれて不精々々《ふしょうぶしょう》に受け合ったのである。
木村は日出新聞の三面で、度々悪口を書かれている。いつでも「木村先生一派の風俗壊乱」という詞が使ってある。中にも西洋の誰やらの脚本をある劇場で興行するのに、木村の訳本を使った時にこのお極《きま》りの悪口が書いてあった。それがどんな脚本かと云うと、censure《
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