が経過していた。あの年の夏に勃発した蘆溝橋事件が意外な発展をとげて、いまや日支両国は全面的な戦争状態にまで捲きこまれてしまっていたのである。
 無論のことわが軍の連戦連捷、そして敵都南京が陥落して間もなくのある日であったが、背広服にオーバーの襟をふかく立てて自転車をF町の方へ走らせているのは、わが田辺定雄であった。――ついでに述べておくが、彼はかくて噂どおり選挙違犯の嫌疑で取調べを受けたのであったが、それは妻が瘤神社へ日参したお蔭で、何事もなく済んだのである。止むをえなかった。田辺定雄は節を曲げて村長のところへお礼に出かけた。すると村長は先日とは打って変って、「いや、なアに、何でもないことだ。俺も自分の村から罪人は出したくないからな……」とからからと笑っていた。
「ついでに、君――」と村長はしばらく下《くだ》らない雑談をやらかしたあとで、「今日、忙しいかな――別に用事がなかったら、県の社会課へちょっと行ってもらいたいんだが。」
 そんなことで、以後、ちょいちょい他の村議諸君と同様、瘤のところへ出入しなければならぬ仕儀になってしまい、それからまた、組合や銀行や、池屋の方なども、瘤の口ききで片がついたような次第――ところでその日も、相変らず瘤の代理で、こんどF町に出来た軍需工場の落成祝いに招かれて行くところだったのである。
 陽脚《ひあし》の早い冬のことで、いつかあたりはもう薄ら暗く、街道を通る人も稀であった。田辺は宴果ててからの二次会のことなど早くも空想に描きながら、その頃流行してきた「上海小唄」を口笛で得々とやっていた。
「畜生、あいつ奴、意地のやける畜生だな」彼は口に出して言った。恐らく二業地の何とかいう妓のことでもあったろう。
 それはとにかく、一方、田辺の家の下男の助次郎が、ちょうどその時刻に、煙草を買うために、部落の端《はず》れの、沼岸に添った商い店の障子をあけて中へ入ると、
「いよう、あんちゃん――」と言葉をかけられた。見るとそれは同じ部落の、あの髯もじゃの森平で、森平はその日一日、馬車をひいていくらかの賃銀にありつけたらしく、いい気持でコップ酒をひっかけていたのである。
「どうだい、一杯――」と森平は重ねていって笑いかけた。
「ひゃア……酒ときては、はア匂いでもかなわねえ。」
「ダンボ(旦那)は何だい、今夜ら……町の方さ大急ぎで出かけてゆくようだっけが。
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