とうとうその日の昼休みに、
「これが最後だ。組合へ行って見て、今日中に来ねえとすれば、俺も素田植えだ。畜生、こんな思いするのは生涯になかったことだ」とぷりぷり言っているとこへ、おさよが丘の坂を下りてこっちへ駈けて来る。今日も学校を休んで留守居かたがたおさよは末子のヨシを守していたのであった。
「なんだ、さア子――」といち早く見つけたおせきが声をかけた。
「肥料でも来たかな」と浩平も起ち上った。
 だが、おさよの持って来た報告は、そんな耳寄りのことではなかった。
「おっ母、ヨチ子、腹痛えって泣いていっと」とおさよは、はあはあ息をきらしながら、遠くから叫んだ。
「腹が痛えって、何時から――」
 おさよが近づいて説明するには、その朝言いつけられたとおり、まだ扱《こ》かない小麦の束を庭へひろげて乾していると、おちえと二人で小麦束の中へ入って歌などうたっていたが、急に黙ってしまって、縁側へ戻るなりそこへ突っ伏して、しくしく泣きだした。何だ、なんで泣くんだ、おっちにどうかされたのかと聞くと、かぶりを振って、ぽんぽが痛えんだという。手水《ちょうず》に行きたいんではないかと訊くと、いやいやする。じゃ、どうすればいいんだといっても、ただ泣いてばかりいて、自分の手では始末がつかぬと言うのである。
「それ、何時頃だか。」
「十時か十一時頃――」
「赤玉飲ませたか」とおせきはせかせかと言い放った。
「飲まねえもの、――袋から出して飲ませべと思っても、ぽき出してしまって。」
「仕様《しよう》ねえ餓鬼だな。――何か食わせやしなかったのか、李でも。」
「食わせっかい、俺ら、なんにも。」
「連れて来ればよかったんだ。」おせきは叱りつけるように言った。「この忙しいのに、痛えたってしようあるもんか。なんで連れて来ねえんだ。」
「だって、おっ母さんは……たアだ転げ廻っていて、何といってもかんぶり[#「かんぶり」に傍点]振るだけなんだもの。」
 おさよはそう言って不服そうに黙った。
「腹ぐれえ何でもねえ、わざわざ知らせに来っことあるもんか、馬鹿。」
 浩平も言って起ち上り、のっそりと、みんなをあとに組合さして出かけて行った。準備だけ出来ても肝心の肥料が来ないのでは、全く骨を折って植えるせい[#「せい」に傍点]はなかった。実際、彼は気が気でならなかった。黙って突っ立っていたおさよは、そのあとからぷすんと、もと来た道を引かえしはじめた。
 おせきはどうすればいいか迷っていた。夫と娘の、それぞれの行動を見守っていたが、
「さア子、さア子――」と呼んだ。が、おさよは聞えたのか聞えないのか、もう振り向きもしなかった。
「大したことでもあるめえ。」彼女はひとりつぶやいて、それから一段と声を高くし、
「さア子、ヨチに赤玉飲ませて寝かせておけ。いいか、無理にでも飲ませなくては駄目だど。」
 おせきは再び田へ下りて万能を振い出した。子供の腹痛など、全く彼らは馴れっこになっていた。夫のいうように、わざわざ知らせに来るほどのことはなかったのである。
 一方、組合の事務所へ駈けつけた浩平は、自分と同じように肥料の問合せにやって来ている五六人の者と顔を合せた。
「どうだい、様子は――来そうかい。」
 ずいと入って誰にともなく言いかけると、「肥料来るかやと、組合さ来てみれば……」「肥料来もせで……」と退屈と憤懣とをごっちゃにした連中が、かけ合いで唄の文句をつぶやいていた。
「用もない、体温計など来てやがる。」
 全く呆れたことに、その体温計が小綺麗な箱へ入って配給されて来ていた。それは農村人への衛生思想注入のため、どこか厚生省あたりの肝煎りで、特に組合が実行したに相違なかった。
「体温|計《はか》ってみたところで、稲は育つめえで」と一人が言って、浩平に話しかけた。「なア、よう、台の親方。」
「うむ、そうでもあるめえで」と浩平はそこにあった椅子へ腰を下ろしながら答えた。「田の体温でも計って報告したら、そのうちに、それ、何とか、その方の医者様がかけつけてくれべえから。」
「農学博士がか。」
「うむ、まァその博士なら、これで、無肥料で増産ちう一挙両得の方法も教えてくれべえからよ。」
「それもそうだっぺけんど、これで人間の方の温度も計る必要があっぺで。みんな、はア、肥料肥料で逆《のぼ》せ上っていっからよ。いい加減のところで血圧下げてもらアねえと、村中みんな脳溢血だなんて……」
「ところがどうも、その血圧、上るばって下りっこねえ。どうだ、今の電話きいてみろ。」
 奥の部屋で、なるほど電話している組合事務係のだみ[#「だみ」に傍点]声がしている。
「……うむ、そんな訳では……なるほどな……うむ、なアる……全く、どうも、いやはや……全くこれ困っちまアな。……いくらでもいいから……はん……ははア……いや、全く
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