……それではまず……さいなら。」
そこでがちゃりと受話器をおく音がして、急ぎ足にスリッパを鳴らしながら係が現れた。半白の小柄な猿のような貌《かお》をしたおやじ[#「おやじ」に傍点]である。わざわざ事務机には向わず、みんなのいる方へ向って火鉢の向う側へ蹲み、両手をふふん……と言いながら組み合せた。出来るだけ七むつかしい、が誰にも当り触りのない顔を彼はそこへ作って見せたのである。
「どうだや、それでもいくらか来るあて[#「あて」に傍点]があるのかい」と一人が訊くと、
「それが、どうも――明日にならなけりゃ分らないと県の方では言っているんで……」
「明日、明日って、随分その手食ったな。まるで何かのようだぜ、組合も。」
「いや、君らはそんな冗談言っていっけんど、みろ、これで、県の方だって、組合の方だって、ここんとこ不眠不休で心配しているんだから。はア、組合長ら、昨日から寝こんじまった位だから――県庁へ行く、農林省へ行く、肥料会社まで行って見る。全くお百度踏んで、それでも何ともならねえんだ。農林省の方では、とにかく早場地方が第一だというわけで、出来るそばからそっちの方へ廻送しているらしいんだし、そこに百叺でも五十叺でもいいから、こっちへ取ろうという始末なんだから、これで、並大抵のことでは……」
「でも、山十(町の肥料屋)なんどへ行けば、一時の間に合せ位のものは、倉庫の中に昼寝しているっち話だねえか。どうだや、そいつを何とか、こうお上の力で、こっちへ廻してよこすような方法をとれねえもんかな」と中年の鬚もじゃ親父が言って、眼玉をぎょろつかせた。
三
それにしても、もうどんなに待ったところで、ないし別の方法によったところで、今日明日の間には合わないものと観念した方がよさそうだった。
「仕方ねえ、それこそ素田でも何でも植えべえ」と投げつけるようにいって浩平は起ち上った。
「そうだ、酢だとか蒟蒻《こんにゃく》だとか言っている場合じゃねえ。俺らもはア、すっぽりと諦めて明日は植えっちまアんだ。」さきにおばこ節を口誦んでいた一人の青年も、それにつれて突っ立ち上り、両手を天井へ届くほど伸ばして、ああ、ああ……とあくびを連発した。
田圃への道を浩平は割り切れぬ気持でのそりのそりと戻りつつあった。町の肥料商の倉庫には確かに相当のストックがあることを彼も信じていた。小金の廻る連中は、すでにその方面から若干のものを手に入れて、どしどしと田を植えているのである。
「畜生――」と彼は思わずひとり言をかっとばした。「そんな大べら棒ってどこにある。」
「いよう、なんだや、今頃――」
ひょいと横あいから自転車を飛ばして知合いの男が姿を現した。
「おう、君か――君こそ何だい今頃。」
「俺か――俺は商売さ。」
ひらりと自転車を下りたその中年の男――選挙ブローカーもやれば、墓碑の下文字も書く、蚕種、桑葉、繭の仲買いもやれば、雑穀屋の真似もやると言ったような存在――俗称「塚屋」で通っているこの五尺足らずの顔面ばかりが馬鹿に大きく、両眼はあるか無きかの一線にすぎない畸形児風の男は、浩平をまともに見て、にやりと笑った。そして口ばやに、
「組合さお百度踏んでも肥料は来めえ。」
「組合長が県や政府や会社へお百度踏んでも駄目だっちだから、こちとら[#「こちとら」に傍点]がいくら、それ……」
「へへえ……」と塚屋は唇をひん曲げた。「組合長ら何処さお百度踏んだのかよ。今頃はエネルギー絞り上げられっちまって、死んだように寝てべえ。ホルモン注射でもしてやらなけりゃ、肥料も来めえで。」
そう吐き出してから、「時に――」と塚屋は調子を改めた。「どうだや、旦那ら、はア、田植えっちまったのかい。」
「田か――田なんか俺ら植えねえつもりだ。今年は、はア、草っ葉に一任と決めた。」
「でも、それでは『増産』という政府の命令にふれべえ。」
「仕方ねえな。これ……」
「少し位なら、俺、都合つけるぜ。実はこないだからその方で、こうして歩いてるんだ。俺のような始末の悪いとんぴくれん[#「とんぴくれん」に傍点]でも、これで非常時となりゃ、いくらかまさか国家のお役に立たなくちゃア、なア。」
そう言って塚屋は、悠々とポケットから巻煙草などをつまみ出し、一本どうだ、とばかり黙って浩平の眼の前へ袋ごと突き出した。
浩平は「暁」を一本つまみ、
「やみ[#「やみ」に傍点]やって国家のためもあんめえ。」
ははあ……と哄笑した。
「やみ[#「やみ」に傍点]なもんか。公定[#「公定」に傍点]で俺らやるんだ。」
「だって君、公定の配給肥料は産組でしか……」
「それはこの村での話、政府の方針としては産組に半々位に分けて配給させる方針でやっているんだぜ。」
「そうかな。……それはまア、どうでもいいが、早いとこ、何
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