上流の広い耕地から何時とはなしに押し流されて来て沈澱するここの泥土は、自然に多くの肥料分を含み、これさえ上げれば大してその部分だけは施肥する必要がなかったばかりか、その上、水田そのものが年一年と高くなって、いくらか秋の水害を脱れるたし[#「たし」に傍点]になったのである。
「勝、早く持って来う、この野郎」と浩平は待ちきれなくなってどなった。「なにを、それ位のもの、愚図ったれていやがるんだ。」
 勝はひどく汗をたらし息を弾ませながら、やっと父親の立っている足許に鋤簾の先端を突き出すと、ばたりとそこへ竹竿を投げ出した。
「由兄の野郎、ずるいや」と彼は泣きそうに言った。
「何だ、俺がどうした。この野郎」遠くから由次が応酬した。「俺ら、自分で自分のを持って来たんだねえか。」
「だって、ひでえやい。いいから、あとで見るッちだから……」
「そんなことで喧嘩するんでねえ、この野郎ら。――勝は早く泥を掻け。」
 浩平は一喝して、大きな鋤簾を水音高く掘割へ投げこんだ。
 勝は帽子を被り直し、それから畦に投げ出されていた泥掻きを取って、母親が切りかえしている田の一方へ父と兄貴が浚い上げる例の泥土を、その中ほどまで掻いて来るという単純ではあるが子供の身にはやや骨の折れる仕事にとりかかった。田へ入るや否や、気持の納まらぬ彼は、丁字形の泥掻きで反対にいきなり由次の方へ泥をひっかけた。
「あれ、この野郎」由次も片脚を上げて足許の泥を跳ねとばしたが、それは勝の方へは行かず、遠く母親の方へ飛んだ。
「こら、由、何すんだ、馬鹿。」
 叱られた兄貴を横眼で見て、勝は口をひん曲げ、眼玉を引っくり返してにゅっ[#「にゅっ」に傍点]とやった。いくらかそれでこじれた気分が直って、せっせとこんどは、本気に泥をかきはじめた。
 それにしても次から次へと上げられる泥土を一人で掻くのは容易のことでなかった。勝は一時間もしないうちに大汗になってしまった。
「あ、メソん畜生――こら、こん畜生。」
 淡緑色の小鰻が泥の中を逃げまどっている。叫びを上げた彼は泥かきを放り出し、両手をもって押えようと駈け寄った。
「おっ母さん、早く、容れもの――俺のぼて[#「ぼて」に傍点]笊――ぼて[#「ぼて」に傍点]笊、早く。」
「どこだか、ぼて[#「ぼて」に傍点]笊。――馬鹿野郎、そんなもの捕ったって、旨《うま》くもありもしねえ。」
 おせきは言ったまま、しかし万能を振りつづけていた。
「捕えたよ、おっ母さん、早く……」
「馬鹿だな。そんなことしていねえで、この野郎、早くかかねえと泥たまってしようがあっか、こらっ、勝。」
 父親にどなられても勝は、片手にしっかと小鰻をぶら下げたまま畦へ上って、そして自分が携えて来て、その辺へ置いたはずのぼて[#「ぼて」に傍点]笊を探しにかかった。
 陽がかんかんと照り出して来た。もう子供の勝手な行動などに構っていられなかった。浩平は満身の力を鋤簾にこめて泥をすくい上げ、おせきは男のように大きく脚を踏ん張って代田を切返した。そして由次も――彼はもう三年も前から百姓仕事に引っ張り出されていたので、半人分以上、いや大人に近いまでの仕事をやってのけたのである。

     二

 次の日も次の日も一家のものは同じように泥上げ、代田の切返し、そして一目散に田植の準備を進めたが、肝心の肥料がまだ手に入っていなかった。自家製の堆肥だけはどうやら真似事位には入れたが、それだけでは泥の廻らない一段と高い方の田など全くどうにもならなかった。そこへは毎年きまって化成を三叺ほど叩きこんだ。ところでその肥料だが――化成のみならず魚糟配合のようなものでも、今年は品不足で(日支事変のための原料不足に加えて製造能力の低下のためだという)価額が倍にも騰貴してしまった。そんなことから、一方では増産ということが国家の至上命令となった関係上、お上の配給制度になり、浩平たちのような、買置きの出来なかった者は村の産業組合からの配給を待たなくてはならなかったのだ。そしてこの配給肥料なら、とにかく成分もたしかだし、価額も一般の肥料商から今まで買ったのよりは安く、「公定」されていた。
 甚だ「うまい具合に」――村人の表現を借りると――出来ていたが、しかし実際なかなかそう行かないものとみえて、「今日来る」、「明日は必ず来る」と組合で確言するにも拘らず、まだほんの少し――桑畑への割当分しかやって来ず、「重点」と称せられる水田の分は一向姿を見せなかった。
「仕方がねえから素田を植えたさ」という者も出て来た。全く気の早い連中にとっては、甘んじて素田を植えるか、三倍もの値で商人からひそかに手に入れるかしかなかったのである。
「俺も素田でも植えっか――」と浩平は代田の準備が進むにつれてやきもき[#「やきもき」に傍点]していたが、
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