り帰って来て、おせきの気持はどうやら転換した。田圃には自分たち同様、田植の人々がそこにもここにも見えたので、彼女はおさよにすがりつかれるまでもなく、じっとそこで我慢したのであったが、あくまで白《しら》をきっている夫の態度には、ますます腹が立ってならなかった。その日一日中、思い思いの仕事をして、夜も思い思いに過ごしたが、あくる朝になっても口をきく機会はなく、おせきはそのまま野良支度になろうとはしなかった。それに彼女はこないだから多少、自分の体の生理的な異状をも自覚していたのであった。
今夜はお寺で部落常会があるから、各戸、かならず誰か一人出席のこと――という役場からの「ふれ」を隣家へ廻して、そこの老婆としばらく無駄話を交換し、やがて何か見馴れぬ洋服姿の男が自家の門口を入って行った様子に、戻って見ると、それが、はからずも勇だったのだ。
「おや、誰かと思ったら。――どうも、誰かが来たように思ってはいたが――」
半年ばかり見ないでいるうちに、急に、町場の青年らしく、大人びた忰を見た彼女は、最近人に見せたことのないような嬉しげな微笑を顔いっぱいに湛えた。
勇は国防色のスフの上衣を脱ぎ、上り端へ胡座《あぐら》をかいてから、小さい新聞包みを母の方へ押しやった。
「おみやげだ。何にもなくて駄目だっけ。」
母の大好物の鰹の切身を彼は汽車を降りた町で買って来たのである。それに、別に少しばかりの東京風の菓子。そしてそれは勝やおさよや、その他の幼い者たちへ。
「みんなどうしたか。」
と彼はがらんどうの家を見廻して訊ねた。
「由次と勝は田植、さア子は今日は、出征家族の奉仕労働とかで、どうしても学校さいかなくてえなんねえなんて行っちまアし、おッちうらはその辺で遊んでいんだっぺ。」
「俺いなくて田植大変だっぺ。」
勇はこんどは土間のあたりを見廻した。貧しい小作百姓のむさ苦しい煤けた土間には、ごみごみした臼や古俵ばかりで何もなかった。
おせきは答えず、別のことを訊ねた。
「東京の方は外米だちけか。まずくてひどかっペ。」
「うむ、ひでえや、ぽそくさで、味も何もねえ。」
「ふでもどうだか、こっちの死米の麦飯と較べると、まアだ、外米の方がよくねえか。」
「うむ、どんなもんだかよ。」
「今年は、はア、洪水浸《みずびた》しの米ばかり残っていて、まアだ食いきれねえでいんだよ。いくら団子にしても、へ
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