どうぞ……」と丁寧に、若き男爵閣下を客間に招じ、正座に据えたのであった。
男爵は粗末な袷《あわせ》・羽織を着流し、風呂敷包み一個を所持しているのみであった。(この話は初秋に起った)が、別にそうした風体を気にかけるでもなく、悠々迫らざる態度で、いかにも貴族らしい挨拶をするのであった。
「僕は全体、上流社会が嫌いでしてね。」
「いや、何といっても平民階級の中にいた方が、気がおけませんよ。」
男爵は、だから「画家」として世に立つべく修業し、写生旅行に、この風光明媚の沼岸へやって来たというのであった。
M教師は酒肴を出しつつ、
「はア、そうですか、この村には小川芋銭先生がおられますが、ご存じですか」
すると男爵は視線をあちこちさせて、
「小川……小川、先生……そう、あの方は帝展でしたな。有名な方ですな。」
「いや、院展の方で……」と正直なM教師は答えたが、相手が、
「あ、院展でしたな、そう、そう院展の……」
明らかに狼狽した返答に接すると、こいつは……と考えざるを得なかった。
雑談数刻、風呂がわいたという知らせに、男爵は、M教師の妻君から手拭を借りて風呂場へ立った。
その間に、M
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