ある。それに毎週金曜日に東京から出張してくるはずだときいた当の弁護士、博士、何某なる人物とも、ぜひ一度は遇って、あの差し紙を撤回してもらわなければ物騒で、一日として安心してはいられないからでもあった。
ところで、几帳面に、雪空にも拘らず出張して来た弁護士が、二人の事務員を使って、せっせと書きものをしている一室へ通された。やがて此方《こちら》へ向き直った博士に、ぼつぼつ事情を訴えたが、博士のいわく、若旦那からは何もきいていない。たとい聞いていたにせよ、この方のことはいっさい自分が責任を負っているので、若旦那には口を出す権利はない……。流暢《りゅうちょう》な東京弁で一気にまくし立てられるばかりか、その隼のような、じっと見据えられる眼に出遇っては、儀作はもはや一言も口がきけなかった。そこには、何か眼に見えぬ、冷厳な重圧が渦をまいていて、人を慄然たらしめるもの以外、何物も存在しなかった。
燃えさかるストーブの火と博士の弁舌にすっかり汗をかいてしまった儀作は、阿呆のような恰好で古谷邸を辞去した。さて、あの博士に対抗して口のきけるのは、例の『荒蕪地』の払下げについての村人のすべての借金の奔走をした前村長ばかりではあるまいか。二三日して彼はふとそんなことを考えついた。で、いまは自分の部落の区長をしているその老人のところへ、のそり[#「のそり」に傍点]と出掛けて行ったのである。すると前村長は、
「うむ、それは何とか俺が談判してやりもしよう。博士だって、弁護士だって何が怖いことあるもんか。だが、まア、聞け。あれだぜ、若旦那のいう工場かせぎも満更でねえ案だで。これからの世の中は、何といってもその工業というやつさ。百姓ではいくら骨を折っても追いつく沙汰ではねえからな。俺もこれ、三期ぶっとおしに村長をしてみて、つくづくそう思ったよ。」
大きな松の根ぼっく[#「ぼっく」に傍点]のぷすぷす燃えている炉の正面にどっかと胡座をかいて、六十歳にしてなお若い妾を囲っておくという評判の前村長は、つるつるに剃った頬のあたりをしきりに撫で廻した。
続いて前村長は、農業衰退の必然性と、重工業、軍需工業隆昌についての世界的な見透しに関して高邁な意見を一くさり述べてから、少しく声を低めて、
「古谷は君、掛け合っても無駄だぜ。実は、よ、あれは君、若造が馬鹿造だから、破産したんだぜ……」
呵々大笑して、「お
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