ないに決まっているという自信のもとに、わざと若旦那の暇そうな正午頃を見計らって出かけたのであったが、やはり見知り越しの手代が出て来て、「あ、そこのことなら……」との挨拶。しかし儀作は、あくまでも若旦那の好意を信じて疑わなかった。三度目に手代に突っぱねられた時、彼は邸宅の門前の雪堆の傍らに待ちかまえていて、若旦那が自動車に乗り出したところを「今日は――」と言ってつかまえた。
「わし、栗林ですが……」というと、
「あ、君か……」
若旦那は思ったとおり親切であった。すでに車の中にゆったりと座りこんで、匂いのいい煙草をふかしながら、先を急ぐ用事を控えているらしいにも拘らず、儀作の用件を、ふんふん……と一々うなずきながら聞いてくれたのである。「うむ、なるほど事情はよく分った。君もこの際、そんなことをされるのは困るだろうから、弁護士の方へ僕から話をするがな、しかしいっさい、僕はその方には手を出さんことにしてあるんだ。――僕はな、これから新規の事業をはじめるんで忙しいんだよ。君、どうかね、聞けば君も困っているようだが、僕の工場の方へ来て働かんかね、なアに、東京の方ではないよ。この近くへ、もう一つはじめるんだ。ほら、県ざかいのあの鹿取山さ、君らもあの辺はよく知ってるだろう。最近、あの山の向うに、君、調査して見るとアンチモンが何千万トンというほど埋蔵されているんだ。アンチモンと言ったって、君らにはナンチモンか分るまいが、とにかくこれから非常に国家的に有用な鉱物資源なんだ。そいつを大々的にやるんで、どしどし工場や住宅を建築するんだが、あんな君の部落のような山の中腹のつまらない所で一生涯ぴいぴいして土いじりをしているより、どうだい、俺の事業へやって来ねえか。――そして、うんと金をもうけてさ。な、そうしたまえ。なに、親、女房、子供? そりゃ君、それらなりに仕事があるよ。ぜひやって来たまえ。馬車を持っているんなら一日五円にはなるぜ。」
そして、儀作にはかまわず、運転手を促して、すうっと雪景色の中へ行ってしまった。
儀作は歯ざれのいいその弁舌――その快調にすっかり酔わされたように、しばし茫然として自動車を見送っていたが、やがて独語した。――あの分ならなんとかなる。
三
儀作は数日おいて再び古谷邸を訪ねた。若旦那と弁護士との間になんらかの話し合いがついている頃と考えたからで
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