競馬
犬田卯

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)贔屓《ひいき》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外国|擬《まが》い

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かます[#「かます」に傍点]へ
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 行って来るぜ……なんて大っぴらに出かけるには、彼はあまりに女房に気兼ねし過ぎていた。それでなくてさえ昨今とがり切っている彼女の神経は、競馬があると聞いただけでもう警戒の眼を光らしていたのである。
「今日は山だ!」
 仙太は根株掘りの大きな唐鍬を肩にして逃げるように家を出た。台所で何かごとごとやっていた妻の眼がじろりと後方からそそがれたような気がして、彼は襟首のあたりがぞっとした。彼はそれを打ち消すように、えへんと一つ、咳払いをやらかしてそれから懐中へ手をやった。そこには五円紙幣が一枚、ぼろ屑のようにくしゃくしゃになって突っ込まっていた。
 一度家の方を振返って見て、女房の姿が見えないのを確かめると彼はその紙幣をくしゃくしゃのまま引出して煙草入のかます[#「かます」に傍点]へ押し込んだ。貧すれば貪する! それは実際だった。地道にやっていたのでは一円の小遣銭をかせぎ出すことさえ不可能な村人達は、何か幸運な、天から降って来るような「儲け仕事」をことに最近熱烈に要求した。
 馬券を買うなどということもその一つの現れだった。世間がこんなに不景気にならない前は、そんなことはばくち[#「ばくち」に傍点]打ちのすることであり、有閑人の遊びごとであり、唾棄すべき破廉恥事に過ぎなかった。が、一枚の馬券がたった五分間で、五円も十円もかせいでくれる! そいつを考えるとなあ君、馬鹿々々しくって百姓仕事なんか……と捨て鉢気を起して、俺だって人間だ、馬券買って悪かろうはずはあるめえ!
 みごとに五円札を二倍にも五倍にもして帰って来る者があったのである。そうした事実が――これこそまさに、求めに求めていた幸運、天から降るのか地から湧くのか知れないが、とにかく小判が転がっているようなものだった――そいつが疫病やみのように村人の魂へとっついてしまった。
 競馬は春秋二季、あたかも農閑期に、いくらかの現なま[#「なま」に傍点]が――たといそれは租税やなんかのためには不足だったにしても――村人のふところへ宿かりした時分にあったのだ。仙太が今
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