五十年をかえりみて
宮城道雄
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この度の音楽生活五十年記念演奏会に際し、皆様に御支援を戴いたことを心から感謝いたします。
私は九歳の年の六月一日に箏を習い始めてから、今年が還暦祝などというと、自分でじじくさく感じて心細くもある。しかしこの年を機会に若返っていよいよ勉強したいと思うので、こんどの演奏会を催したのである。
五十年といえば大変長いようであるが、自分ではもう五十年過ぎたのかなと思う位である。私は箏を中心に音楽生活をしているおかげで人生は明るい。しかしその反面には苦難があった。
私の父は、貧乏でありながら気前もよかった。自分が困っていても、人にはそれを見せず、おしげもなくふるまった。したがって、お金はあるだけ使うというたちであった。
父をほめるようでおかしいが、学校は中学を出た位であったが知識は広く、何を尋ねても、何をやらせても人並優れていたらしいが、いわゆる器用貧乏というもので、大した成功はしなかった。それどころか、事業に失敗して朝鮮に渡り、朝鮮で賊に会って重傷を負わされたので、とうとう私が朝鮮へ出かけていって、一家をささえなければならない羽目になった。しかし、まだ年もゆかぬ十四、五歳の私の細腕では、いかにお弟子に箏を教えても、六人暮しの家族を充分に養うことはできなかった。それで父がいつも借金取りの断りを言っているのを聞くのが一番辛かった。しかし、貧乏のせいか気持は家族的であった。
私がお弟子の家などへ招かれて行って、御馳走が出ると家の者にも食べさせたいなどと思うと、その御馳走がのどを通らなかったことが度々あった。
私を子供の時から母代わりになって育ててくれたおばあさんが亡くなってから、私は仁川をはなれて京城のある箏のお弟子先で、箏を教えながら居候のようなことをしていたので、自然、父とは別れることになった。
ある冬の日に、私は人力車にのって出稽古に行く途中、朝鮮の寒い風が吹きまくって、寒気が身にひしひしとしみわたった。その時ふと、父のことを想い出して、この寒さにどうしているかと思うと、矢もたてもたまらなくなっ
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