て、出稽古から帰るとかせぎためた何がしかを早速、父に送ったこともあった。こんなことを書いているとはてしもないが、私は箏を習い始めてからは、つらさも、悲しさも、うれしさも、いずれの時も箏と二人づれであった。箏に向えば希望が湧いて、いかなる心の苦難も解決出来るような気がした。それは箏と永年、苦楽を共にして来た今でも同じ気持である。
私が、兵庫の中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2−13−7]に入門した時は、奥さんが私を抱きかかえるようにして玄関へあげてくれた。そこはお寺の玄関のようであった。普通は横の入口から入るのであるが、その日は特に大門を明けて迎えてくれたらしい。手ほどきをして貰った二代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2−13−7]は老先生であった。私はまだ物を見るくせがあったので、かえって糸間違いをしておぼえが悪かった。おばあさんが心配してものになるでしょうかと先生にたずねると、この子は、声が糸にのるから大丈夫と言われたが、もっとも声がのらなかったら音痴である。それから、十歳から十一歳の頃に、眼が全く見えなくなってから、箏の音色がほんとうに分ってきたようにおぼえている。
私の眼が見にくくなったのは、二十歳前後からであった。それ以前の子供の頃は、眼が悪いとは思えないほど普通であったらしい。みんなが、卵に目鼻のような大したお子さんだなどと言って可愛がってくれたが、それもつかの間で、だんだん地がねが出て、私より二つ年上の捨吉という兄弟子といたずらを始めた。紙で蛇のようなものをこしらえて、先生の家の二階の手すりからぶら下げて、下を通る女中をびっくりさせてひどく叱られたこともあった。しかし、箏や三味線の練習は怠らなかった。それでも箏の組唄や三味線の本手などというややこしい曲は、よく忘れて始終叱られていた。
この老先生が亡くなって、私は三代目の先生にも習った。年を取れば取るほど、師の恩を感じるもので、私は四年ほど前に兵庫県の和田山という所へ演奏に行ったが、それは今、後をついでいられる四代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2−13−7]と一しょに演奏することを懐しく思ったからである。
私は東京へ出て来てか
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