利尻山とその植物
牧野富太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)然《しか》る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出来|悪《にく》い
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 余が北見の国利尻島の利尻山に登ったのは、三十六年の八月である、農学士川上滝弥君が、数年前に数十日の間この山に立籠って、採集せられた結果を『植物学雑誌』に発表せられたのを、読んでから、折があったら自分も一度はこの山に採集に出かけたいと思っていたが、何分にも好機会がないので、思いながら久しく目的を達することが出来なかった、然《しか》るに山岳会の会員中で高山植物の採集と培養に熱心な加藤泰秋子爵が、この山の採集を思い立たるるとの話を聞いたので、もし同行が出来れば自分は大変に利益を得られるであろうと信じた所が、子爵もその当時は高山植物に充分の経験を持っておられなかった点もあるので、誰か同行をしてくれる人があればと捜しておられる所であったので、自分の希望は直《ただち》に子爵の厚意に依て満足せしめられることが出来たのである、しかしその約束の条件として、自分はこの採集の紀行を書くことを引受けたことを第一に白状せねばならぬ、ところが俗にいう、鹿を逐《お》う猟師は山を見ずで、植物の採集に夢中になっていると、山の形やら、途中の有様やら、どうも後から考えて見れば、筆を採って紀行文を作るということが、甚《はなは》だ困難である、そこでいずれその内にと思いながら次第に年月は経過するし、益々記憶がぼんやりするし、今日となっては紀行を書くということは、絶対に出来|悪《にく》いこととなってしまった、ところがこの事に当初から関係しておられる諸君は、頻《しき》りにこのことを余に責められるので、今更何とも致方《いたしかた》がない、それで幸いに山岳会の雑誌に大略のことを載せてもろうて、自分の責を塞《ふさ》ぎ、かつは加藤子爵及びその他の諸君にもこの顛末《てんまつ》を告げて謝したいと思う。
 加藤子爵は北海道に開墾地を持ておられるので、其方に先《さ》きに出発せられて、余が東京を出発したのは七月二十六日であった、勿論東京からは同行者もないので、青森に着いて、一、二の人を訪問して、二十八日に同所を出発して、二十九日に室蘭に上陸した、この間は別に話すべきこともないが、同日の午後四時に紋別《モンベツ》を過ぎて虻田《アブタ》の村に到着した、その翌三十日には、加藤子爵の開墾地で同じ虻田村の中の幌萠《ホロモイ》という所に着いて、加藤子爵に会合することが出来た、その日その翌日などは、その附近の植物を採集して、種々の獲物があったが、これも今度の話の主でないから、ズット略することにしよう。
 八月三日に加藤子爵の一行と札幌に到着して、山形屋に宿を取った、ところがどういう加減であったか、自分が病気を発したので、一時は折角の思い立ちも、此所《ここ》まで来て断念しなければならぬかと心配をしたけれども、思った程でもなく、翌日は殆んど全快をしてしまった、それから三日ほど過ぎて、六日の日であるが、札幌農学校の宮部博士と、加藤子爵とそれから子爵の随行の吉川真水という人と、幌向《ホロムイ》の泥炭《でいたん》地に採収を試みた、この日は山草家の木下友三郎君も同行せられることになった、ちょっと話が前に立戻るが木下君は、東京にある時から、此度の利尻登山に同行せられるかも知れないという予約があって、同君も他の用を兼ねて北海道に来らるる都合であったから、一同が途中で待合せつつ幾干《いくばく》か日数を費すような訳になったのである。
 翌七日にはいよいよ利尻島に向って進行するために札幌を出発して、加藤子爵主従に木下法学士と余と都合四人外に井口正道という人が小樽に着して、色内町の越中屋に一先《ひとま》ず足を休めたが、井口氏は病気を発したので、到頭小樽に残ることになった、余ら四人は即日小樽を出発して日高丸に乗込んだ、元来利尻に行くのには、小樽から北見の稚内《ワッカナイ》への定期航海船に便乗するので、一週間に一回ということであるからして、その船が帰りに利尻に寄港する時、またそれに乗込んで帰るのが普通の順序であるそうだ、海上は至って穏かであった、午後六時頃「増毛」という所に着して、十時頃また同所を出発して、翌八日の午前六時頃、焼尻島に碇を下した、という程もなく、直に同所を出発してまた七時に天売《テウリ》に一時進行を止めて、また北に向って出発した、午前十一時頃であったろうと思う、利尻島の内で、鬼脇《おにわき》という港に着いた、この港は利尻の内で第一の都会といっても宜《よろ》しいのである、それから午後一時二十分というに、いよいよ一行が上陸すべき鴛泊《おしどまり》の港に投錨した、直に上陸して熊谷という旅店に一行は陣取ることになった。
 この日は朝からして雲が多く、思うように山の形を見ることも出来なかったのでもあるし、幸いにして海上の波は穏かであったけれども、格別面白いこともなくして十時頃になったのであるが、幸いにも次第に晴天となったので、鬼脇に着する前からして、遥かに利尻山の尖《とが》りたる峰を眺むることが出来た、早上陸する前から一同は山ばかりを見て、あの辺がどうであろうとか、そうではあるまいとかの評定ばかりで、随分傍から見たら可笑《おかし》い位であったろうと思う、一行の泊った熊谷という宿屋は、この土地ではかなりの旅店で、殊《こと》に最初思ったよりは、この島が開けているので、格別不自由を感ずるほどのこともなかった。
 この日は何のなすこともなく、日を暮らすのも勿体ないという相談から、一同打連れて近傍の植物採集に出かけたのが、殆んど四時頃であったろうと思う、大泊村の海岸へ行《おもむ》いた、鴛泊から西の方に当って、おおよそ五、六丁位の所である、人家は格別沢山もないが、所々に漁業をなすものの家が幾軒ずつか散在している位である、その海岸に小さな岡があるので、その岡の上に登って見渡したところが、一帯に島の中央に向って高原的の地勢をなしている、海岸の所はあるいは岩壁もあるし、あるいは浜となっているところもある、また海岸は雑木の生えているところもあれば、草原となっているところもあるが、とにかく森林をなしているほどのところは海岸から少し隔っている、その森林の樹木は、エゾマツとトドマツといっても宜しいのである、今申した海岸の小さな岡の辺で採集した植物は先ずこんなものである、ヨモギ、アキノキリンソウ、カワラナデシコ、シロワレモコウ、ハギ、ウシノケグサ、オタカラコウ、アキカラマツ、キタミアザミ、マイヅルソウ、ツルウメモドキ、ツタウルシ、ハナウド、ススキ、スゲ、サマニヨモギ、エゾノヨモギギク、ヤマハハコ、ハマシャシン(ツリガネニンジンの一品)、カワラマツバ、オオヤマフスマ、イワガリヤス、ナワシロイチゴ、コウゾリナ、クサフジ、などである、その内で、エゾノヨモギギクは日本での珍品といって宜しい植物である、それからこの岡の下で、チシマフウロを採集した、岡の北面の絶壁を海の方に向いて、下った所、岩壁の腰のあたりには、ポレヤナギが沢山に自生しているのを見た、それから、エゾイヌナズナは、丁度イワレンゲのように沢山生えておった、エゾノヒナノウスツボ、エゾハマハタザオ、ウシノケグサ、エゾオオバコ、ツメクサ、ノコギリソウ、イワレンゲなども、この辺に沢山あるし、中にも眼に付いたのは、シロヨモギの色が殆んど霜のように白かったのである、こんな草の生えているその下は、直ぐに波に打たれているのである、岩の上部には、オタカラコウ、ツタウルシ、シロワレモコウ、エゾオトギリなどが多く生えていて、ガンコウランもこの辺に生じているのを見た。
 先ずこの日はこの位の採集で一同宿に帰って、晩食後は自分はこの採集品の整理に忙がしかったので、他の諸君のことはよく覚えていないが、多分利尻山登山の準備に就て心配せられたであろうと思う、しかしこの島の人に尋ねても、利尻山は信心にて詣る人が日帰りに登るだけのことで、道ももとより悪いし、山上に泊るべき小屋などのある訳もないとのことで、何分にも宿屋では山の上の詳しい模様は知ることが出来なかった。
 九日はなお前日に続いて登山の用意をすることになった、一体はこの日早朝から山に向って踏み出すべきはずであったが、天気模様が悪いので、今一日滞在して充分に用意をしたら宜《よ》かろうということで、結局雨のために一日滞在することになった、午後になって雨は漸《ようや》く止《や》んで五時頃から晴天となったので、未だ暮れるには間があるからといって、一同は燈台のある岡の近辺に採集を試みた、この岡は昨日採集した方面とは全く反対であるが、自生している植物の種類は、センダイハギ、ハチジョウナ、イヌゴマ、ハマニンニク、エゾノヒナノウスツボ、ハマエンドウ、アキカラマツ、ノゲシ、ハマハコベ、イチゴツナギ、ホソバノハマアカザ、ナミキソウ、オオバコ、オトギリソウ、ヤマハハコ、アキタブキ、ハマベンケイ、カセンソウ、イヌタデ、イブキジャコウソウ、エゾオオバコ、オチツボスミレ、シオツメクサ、エゾイヌナズナなどであったが、その外にノボロギクがこの辺にも輸入されているのを見た。
 十日、いよいよ利尻山に登山するために、鴛泊の宿を払暁に出発した、同行は例の四人の外に人足がたしか七人か八人かであろう、つまり一人に就て人足二人位の割合であったように思うている、とにかく弁当やら、草の入れ物やら、あるいは余が使用する押紙などを、沢山に持たしたのであるから、普通の人の登山に較べたら、人足の数もよほど多かったであろうと思う、鴛泊の町を宿屋から南東に向って、五、六町も行ってから、右の方に折れたように思う、一体は宿を出でて間もなく、右に曲りて登るのが利尻山への本道であるらしいが、余らの一行は、途中で、ミズゴケを採る必要があるので、ミズゴケの沢山にあるという池の方へ廻ることになったために、こんな道筋を進んだのである、町はずれから右に折れて、幾町か爪先上りに進んで行けば、高原に出るが、草が深くて道は小さいので、やっと捜して行く位である、次第に進むに従って雑木やら、ネマガリダケ、ミヤコザサなどが段々生い繁って、人の丈よりも高い位であるからして、道は殆んど見ることが出来ないようなというよりも、道は全くないと言った方が宜いのである、そんなところを数町の間押分けながら進んで、漸く池のある所に出たが、無論この池の名はないのである、ミズゴケが沢山この辺にあるので、一同は充分に先ずこれを採集した、池の辺は、トドマツと、エゾマツが一番多くこの辺はすべて喬木林をなしている、その林中にある植物は、重《おも》なるものを数えて見ると、ミヤマシケシダ、シロバナニガナ、ツボスミレ、ホザキナナカマド、メシダ、オオメシダ、ジュウモンジシダ、ミヤママタタビ、サルナシ、バッコヤナギ、オオバノヨツバムグラ、テンナンショウ、ヒトリシズカ、ミツバベンケイソウ、ヒメジャゴケ、ウド、ザゼンソウ、ナンバンハコベ、ミヤマタニタデ、イワガネゼンマイなどである、この池から先きは、多少の斜面となっているので、その斜面を伝うて登れば先ず笹原である、笹原の次が雑木である、雑木の次がエゾマツとトドマツの密生している森林で、道は全く形もないのに傾斜はますます急である、一行はこの森林の中を非常な困難をして登ったのであるが、間もなく斜面が漸く緩になると同時に、森林が変じて笹原となって、終には谷に出ることが出来た。
 この谷には水もあるので、十二時に間もないから先ずこの辺で食事をしようということになったが、何分にも未だ利尻山の頂上も見ることが出来ないという有様であるから、一行も殆んど何の愉快を感ずることが出来なかったのである、加藤子爵が今では大事の盆栽としておられる、エゾマツの数本寄せ植の小さな鉢物は、この食事をした場所で岩の上に実生《みしょう》のかたまりがあったのを、木下君がいたずら半分に採られたのであったと思う、その当時はあんなに美事《みごと》の盆栽になろうとは思わなかったが、人の丹精というものは誠
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