ensis Duch[#「Duch」は斜体]. var. ananassa Bailey[#「Bailey」は斜体] である。日本産のモリイチゴ(シロバナヘビイチゴ)もその姉妹品《しまいひん》で、これは Fragaria nipponica Makino[#「Makino」は斜体] であり、いま一つ同属の日本産は、ノウゴイチゴで、それは Fragaria Iinumae Makino[#「Makino」は斜体] である。このモリイチゴもノウゴイチゴも共《とも》にその実はオランダイチゴそっくりで、ただ小形であるばかりである。その形、その味、その香《にお》い、なんらオランダイチゴと変わりはない。わが邦《くに》の園芸家がこれに着目《ちゃくもく》し、大いにその品種の改良を企《くわだ》てなかったのは、大《だい》なる落度《おちど》である。
このオランダイチゴ、すなわちストローベリの実の食《く》うところは、その花托《かたく》が放大して赤色《せきしょく》を呈《てい》し味が甘く、香《にお》いがあって軟《やわ》らかい肉質をなしている部分である。人々はその花托《かたく》すなわち茎《くき》の頂部《ちょうぶ》、換言《かんげん》すればその茎《くき》を食《しょく》しているのであって、本当の果実を食《く》っているのではない(いっしょに口には入って行けども)。されば本当の果実とはどこをいっているかというと、それはその放大せる花托面《かたくめん》に散布《さんぷ》して付着《ふちゃく》している細小な粒状《つぶじょう》そのもの(図の右の方に描いてあるもの)である。
ゆえにオランダイチゴは食用部と果実とはまったく別で、ただその果実は花托面《かたくめん》に載《の》っているにすぎない。そして畢竟《ひっきょう》このオランダイチゴの実も一つの擬果《ぎか》に属するのだが、それは野外に多きヘビイチゴの実も同じことだ。このヘビイチゴの実には甘味《あまみ》がないからだれも食《く》わない。いやな名がついていれど、もとよりなんら毒はない。ヘビイチゴとは野原で蛇《へび》の食《く》う苺《いちご》の意だ。
[#「オランダイチゴの図」のキャプション付きの図(fig46821_22.png)入る]
[#改ページ]
あとがき
まず以上で花と実との概説《がいせつ》を了《お》えた。これは一気呵成《いっきかせい》に筆《ふで》にまかせて書いたものであるから、まずい点もそこここにあるであろうことを恐縮している。要するに失礼な申し分ではあれど、読者諸君を草木《くさき》に対しては素人《しろうと》であると仮定し、そんな御方《おかた》になるべく植物趣味を感じてもらいたさに、わざとこんな文章、それは口でお話するようなしごく通俗な文章を書いてみたのである。もし諸君がこの文章を読んでいささかでも植物趣味を感ぜられ、且《か》つあわせて多少でも植物知識を得られたならば、筆者の私は大いに満足するところである。
われらを取り巻いている物の中で、植物ほど人生と深い関係を持っているものは少ない。まず世界に植物すなわち草木がなかったなら、われらはけっして生きてはいけないことで、その重要さが判《わか》るではないか。われらの衣食住はその資源を植物に仰《あお》いでいるものが多いことを見ても、その訳《わけ》がうなずかれる。
植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且《か》つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然《てんねん》の賜《たまもの》である。実にこれは人生の至宝《しほう》であると言っても、けっして溢言《いつげん》ではないのであろう。
翠色《すいしょく》滴《した》たる草木の葉のみを望んでも、だれもその美と爽快《そうかい》とに打たれないものはあるまい。これが一年中われらの周囲の景致《けいち》である。またその上に植物には紅白紫黄《こうはくしおう》、色とりどりの花が咲き、吾人《ごじん》の眼を楽しませることひととおりではない。だれもこの天から授《さず》かった花を愛せぬものはあるまい。そしてそれが人間の心境《しんきょう》に影響すれば、悪人《あくにん》も善人《ぜんにん》になるであろう。荒《すさ》んだ人も雅《みや》びな人となるであろう。罪人《ざいにん》もその過去を悔悟《かいご》するであろう。そんなことなど思いめぐらしてみると、この微妙な植物は一の宗教である、と言えないことはあるまい。
自然の宗教! その本尊《ほんぞん》は植物。なんら儒教《じゅきょう》、仏教と異なるところはない。今日《こんにち》私は飽《あ》くまでもこの自然宗教にひたりながら日々を愉快《ゆかい》に過《す》ごしていて、なんら不平の気持はなく、心はいつも平々坦々《へいへいたんたん》である。そしてそれがわが健康にも響《ひび》いて、今年八十八歳のこの白髪《はくはつ》のオヤジすこぶる元気で、夜も二時ごろまで勉強を続けて飽《あ》くことを知らない。時には夜明けまで仕事をしている。畢竟《ひっきょう》これは平素《へいそ》天然を楽しんでいるおかげであろう。実に天然こそ神である。天然が人生に及ぼす影響は、まことに至大至重《しだいしちょう》であると言うべきだ。
植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導《みちび》き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興《ぼっこう》は国の富《とみ》を殖《ふ》やし、したがって国民の生活を裕《ゆた》かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富《ひんぷ》、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧《ひん》すれば、その間に罪悪《ざいあく》が生じて世が乱れるが、富《と》めば、余裕《よゆう》を生じて人間同士の礼節《れいせつ》も敦《あつ》くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致《しょうち》することになる。想《おも》えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。
人間は生きている間が花である。わずかな短かい浮世《うきよ》である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智《ち》を磨《みが》き、人のために尽《つ》くし、国のために務《つと》め、ないしはまた自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死《すいせいむし》するほど馬鹿《ばか》なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為《むい》に過《す》ごしてはもったいなく、実に神に対しても申し訳《わけ》がないではないか。
私はかつて左のとおり書いたことがあった。
「私は草木《くさき》に愛を持つことによって人間愛を養《やしな》うことができる、と確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮《にちれん》ほどの偉物《えらぶつ》であったなら、きっと私は、草木を本尊《ほんぞん》とする宗教を樹立《じゅりつ》してみせることができると思っている。私は今|草木《くさき》を無駄《むだ》に枯《か》らすことをようしなくなった。また私は蟻《あり》一ぴきでも虫などでも、それを無残《むざん》に殺すことをようしなくなった。この慈悲的《じひてき》の心、すなわちその思いやりの心を私はなんで養《やしな》い得たか、私はわが愛する草木でこれを培《つちこ》うた。また私は草木の栄枯盛衰《えいこせいすい》を観《み》て、人生なるものを解《かい》し得たと自信している。
これほどまでも草木《くさき》は人間の心事《しんじ》に役立つものであるのに、なぜ世人《せじん》はこの至宝《しほう》にあまり関心を払《はら》わないであろうか。私はこれを俗に言う『食わず嫌《ぎら》い』に帰《き》したい。私は広く四方八方の世人《せじん》に向こうて、まあ嘘《うそ》と思って一度味わってみてください、と絶叫《ぜっきょう》したい。私はけっして嘘言《きょげん》は吐《は》かない。どうかまずその肉の一臠《いちれん》を嘗《な》めてみてください。
みなの人に思いやりの心があれば、世の中は実に美しいことであろう。相互《そうご》に喧嘩《けんか》も起こらねば、国と国との戦争も起こるまい。この思いやりの心、むずかしく言えば博愛心、慈悲心、相愛心があれば世の中は必ず静謐《せいひつ》で、その人々は確《たし》かに無上の幸福に浴《よく》せんこと、ゆめゆめ疑いあるべからずだ。
世のいろいろの宗教はいろいろの道をたどりてこれを世人《せじん》に説《と》いているが、それを私はあえて理窟《りくつ》を言わずにただ感情に訴《うった》えて、これを草木で養《やしな》いたい、というのが私の宗教心でありまた私の理想である。私は諸処の講演に臨《のぞ》む時は機会あるごとに、いつもこの主意で学生等に訓話《くんわ》している」
また私は世人が植物に趣味を持てば次の三|徳《とく》があることを主張する。すなわち、
第一に、人間の本性が良くなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇《ほこ》る草花《くさばな》を見れば、何人《なんびと》もあの優《やさ》しい自然の美に打たれて、和《なご》やかな心にならぬものはあるまい。氷が春風に融《と》けるごとくに、怒《いか》りもさっそくに解《と》けるであろう。またあわせて心が詩的にもなり美的にもなる。
第二に、健康《けんこう》になる。植物に趣味を持って山野《さんや》に草や木をさがし求むれば、自然に戸外《こがい》の運動が足《た》るようになる。あわせて日光浴《にっこうよく》ができ、紫外線《しがいせん》に触《ふ》れ、したがって知《し》らず識《し》らずの間に健康が増進せられる。
第三に、人生に寂寞《じゃくまく》を感じない。もしも世界中の人間がわれに背《そむ》くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にある草木《くさき》は永遠の恋人としてわれに優《やさ》しく笑《え》みかけるのであろう。
惟《おも》うに、私はようこそ生まれつき植物に愛を持って来たものだと、またと得がたいその幸福を天に感謝している次第《しだい》である。
底本:「植物知識」講談社
1981(昭和56)年2月10日第1刷発行
1993(平成5)年10月20日第22刷発行
底本の親本:「四季の花と果実」教養の書シリーズ、逓信省
1949(昭和24)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本には、復刻するに当って「寸尺などをメートル法に換算された」と記載されています。
※図版は、各項目の末尾に置きました。
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全12ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング