せみ》は雄蝉《おすぜみ》であって、一生懸命《いっしょうけんめい》に雌蝉《めすぜみ》を呼んでいるのである。うまくランデブーすれば、雄蝉《おすぜみ》は莞爾《かんじ》として死出《しで》の旅路《たびじ》へと急ぎ、憐《あわ》れにも木から落ちて死骸《しがい》を地に曝《さら》し、蟻《あり》の餌《え》となる。
 しかし雌蝉《めすぜみ》は卵を生むまでは生き残るが、卵を生むが最後、雄蝉《おすぜみ》の後《あと》を追って死んでゆく。いわゆる蝉《せみ》と生まれて地上に出《い》でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。これは草でも、木でも、虫でも、鳥でも、獣《けもの》でも、人でも、その点はなんら変わったことはない、つまり生物はみな同じだ。
 われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美《たんび》するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観《しょうかん》して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠《まこと》に迷惑至極《めいわくしごく》と歎《かこ》つであろう。花のために、一掬《いっきく》の涙があってもよいではないか。
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