もたらしたものであろう。そしてそれが江戸を中心として漸次に関西ならびにその他の諸地方へ拡まっていったもののように想われる。そして江戸をはじめその後諸方でいろいろの方言が生まれたものであって、次のような多くの称えがある。すなわちそれは江戸ササゲ、トウササゲ、五月ササゲ、三度ササゲ、仙台ササゲ、朝鮮ササゲ、ナタササゲ、カマササゲ、カジワラササゲ、銀ササゲ、銀フロウ、銀ブロウ、フロウ(同名あり、不老の意)、二度フロウ、甲州フロウ、江戸フロウ、二度ナリ、信濃マメ、マゴマメ、八升マメであるが、江戸ではまたこれをインゲンマメと呼んでいた。飯沼慾斎《いいぬまよくさい》の『草木図説《そうもくずせつ》』では五月ササゲを正名として用い、トウササゲを副名としている。私の『牧野日本植物図鑑』にもゴガツササゲの名を採択して用いてある。
大槻文彦《おおつきふみひこ》博士の『大言海《だいげんかい》』(『言海』もほぼ同文)には本当のインゲンマメ(Dolichos Lablab L[#「L」は斜体].)と贋のインゲンマメ(Phaseolus vulgaris L[#「L」は斜体].)との二種がインゲンササゲすなわち隠元豆として混説してあって、一向に当を得ていないことはこの名誉ある好辞典としてはこの謬説まことに惜むべきである。このインゲンマメは上に述べたように截然二つに分ってよろしく別々に解説を付すべきものである。
この五月ササゲと同属で従来ベニバナインゲンといっていたものがある。私は信州などでの方言によっていまこれをハナササゲという佳名で呼んでいる。この赤花品をつくっておくと往々にしてその白花品が同圃中で赤花の母品に交って生ずるが、これすなわちシロバナササゲ(Phaseolus coccineus L[#「L」は斜体]. var. albus Bailey[#「Bailey」は斜体])であって、単にその花が白いばかりでなくその豆もまた白い。この種は寒い地方に適してよく稔るのであるが、暖地につくると不作である。
ナガイモとヤマノイモ
今日私にとっては、こんな問題はもはやカビが生えて古臭く、なんの興味もありゃしない。が、それでも一言せねばならんことがあるので強いてここにペンを走らせる。ものういことだ。
明治二十四年(1891)十二月に帝国博物館で発行になった田中芳男《たなかよしお》、小野職※[#「殻/心」、200−4]《おのもとよし》同撰の『有用植物図説』に
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ナガイモ 野山薬《ジネンジョウ》ヲ園圃ニ栽培スル者ニシテ其形状亦相似テ其長サ三四尺ニ至ル其需用亦彼ニ異ルコトナシ
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と書き、またジネンジョウに対しては
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仏掌藷《ツクネイモ》ノ原種ニシテ山野ニ自生シ根形狭長五六尺余ニ至ル者ナリ其需要ハ彼ト大差ナシト雖ドモ品位彼ニ優レリ
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と書いているが、これは全くの認識不足で、このナガイモもまたツクネイモ(ナガイモの一品)もけっしてジネンジョウ(ヤマノイモ)から出たもんではなく、この両品は全然別種に属するものである。そして今これを学名でいえばジネンジョウすなわちヤマノイモは Dioscorea japonica Thunb[#「Thunb」は斜体]. でナガイモ、ツクネイモは Dioscorea Batatas Decne[#「Decne」は斜体]. である。だから、いくらヤマノイモのジネンジョウを培養してみてもけっしてナガイモにもツクネイモにもなりはしない。のみならず日本国中にヤマノイモ(ジネンジョウ)はどこにもつくってはいなく、私はまだそんな実際を見たことがない。そしてこのジネンジョウはやはり「野に置け」の類でその天然自然のものが味が優れているので、これを圃につくってその味を落とすようなオセッカイをする間抜け者は世間にないようだ。やはり山野を捜し回ってジネンジョウ掘りをすることが利口なようである。また田村西湖《たむらせいこ》口義の『本草綱目|記聞《きぶん》』薯蕷の条下に「ナガイモト云ハヤマイモノ人作ヲ経タルモノナリ」と書いてあるが、これは無論事実を誤っている。このヤマノイモをつくったものがナガイモだと思い違いしていることが昔から今までの通説のようになっているのは、前の田中、小野両氏の説で見ても分かる。世人がこのような謬見を抱いていることをみると、つまりその人々に本当の植物知識が欠けていることを証拠立てている訳だ。
昔からどの学者もどの学者もみなヤマノイモ(ジネンジョウ)を薯蕷だとしていた。が、それを初めて説破してその誤謬を指摘し、薯蕷はけっしてヤマノイモではなくまさにナガイモであることを明かにしその誤りを匡正したのは私であって、私はかつて図入りでその一文を公にしておいたことがあった。それは昭和二年(1927)十二月三十一日発行の『植物研究雑誌』第四巻第六号での「やまのいもハ薯蕷デモ山薬デモナイ」であった。
山薬といい野山薬というと、その字面から推量して軽々にこれを薬食いにもなるヤマノイモのことだと極めているが、しかしこの山薬も野山薬も、家山薬とともに薯蕷すなわちナガイモ(Dioscorea Batatas Decne[#「Decne」は斜体].)の一名で、この山薬も野山薬もけっしてヤマノイモ(Dioscorea japonica Thunb[#「Thunb」は斜体].)の名ではない。そしてヤマノイモにはなんらの漢名もないのである。それはこの植物が中国には産しないようだからであろう。
全体ナガイモの薯蕷を山薬といった理由はいかん。それは唐の代宗の名が預であるので、当時その諱を避けて薯蕷を薯薬と変更した。ところが後ちまた宋の英宗《えいそう》の諱が署であるため、今度は再びその薯薬を改めて山薬としたのである。つまりナガイモの元の名の薯蕷が薯薬に変りこの薯薬が山薬となったのである。そしてその山薬(ナガイモ)の野生しているものが野山薬、すなわちナガイモで、家圃につくられてあるものが家山薬、すなわちツクリナガイモである。
薯蕷の野生しているものはみなその根が地中へ直下してその形が長いから、それでナガイモ(長薯の意)といわれ、植物学上ではそれを Dioscorea Batatas Decne[#「Decne」は斜体]. の和名としてナガイモとは呼んでいるが、しかし園圃に栽培せられて同種の中には無論長形(あまり長くはない)の品もあるが、その園芸品には根形が短大になっているものが常形で、それにはツクネイモをはじめとしてヤマトイモ、キネイモ、テコイモ、イチョウイモ、トロイモなど数々がある。
前にも書いたが、昔から山ノイモが鰻になるという諺があって、それが寺島良安の『倭漢三才図会』に書いてある。しかしこれはまじめなこととは誰も信じていないだろうが、中にはまた半信半疑でいる人がないとも限らない。がこれはもとより実際にはあり得べからざることであるのはもちろんだ。しかるにこんな話をつくったのは、多分鰻も精力増進の滋養品、山ノイモもまた同じくヌルヌルとした補強品、そして同様に体が長いから、それで上のようなことを言ったのではなかろうかと想像する。
今は妻のない私に、千葉県の蕨橿堂君から体の滋養になるとて土地で採ったヤマノイモを贈って来た。そこで早速次の歌をつくり答礼の手紙に添えて同君のもとへ送ったことがあった。
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精力のやりばに困る独り者、亡き妻恋しけふの我が身は
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ヒマワリ
中国の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』という書物に
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向日葵、一名ハ西番葵、高サ一二丈、葉ハ蜀葵ヨリモ大、尖狭ニシテ刻欠多シ、六月ニ花ヲ開ク、毎幹頂上ニ只一花、黄弁大心、其形盤ノ如シ、太陽ニ随テ回転ス、如《モ》シ日ガ東ニ昇レバ、則チ花ハ東ニ朝《ムカ》ヒ、日ガ天ニ中スレバ、則チ花ハ直チニ上ニ朝《ムカ》ヒ、日ガ西ニ沈メバ、則チ花ハ西ニ朝フ(漢文)
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とある。ヒマワリすなわち日回の名も向日葵の名も、こんな意味で名づけられたものである。が、しかしこの花はこの文にあるように日に向かって回ることはけっしてなく、東に向かって咲いている花はいつまでも東に向っており、西に向かって咲いている花はいつまでも西向きになっていて、敢て動くことがない。ウソだと思えば花の傍に一日立ちつくして、朝から晩まで花を見つめておれば、成るほどと初めて合点がゆき、古人が吾らを欺いていたことに気がつくであろう。しかし花がまだ咲かず、それがなお極く嫩《わか》い蕾のときは蕾をもった幼嫩《ようどん》な梢が日に向かって多少傾くことがないでもないが、これは他の植物にも見られる普通の向日現象で、なにもヒマワリに限ったことではない。しかしとにかく世間では反対説を唱えて他人の説にケチを付けたがる癖があるので、このヒマワリの嫩梢が多少日に傾く現象を鬼の首でも取ったかのように言い立てて、ヒマワリの花が日に回らぬとはウソだというネジケモノが時々あるようだが、しかしついに厳然たる事実には打ち勝てないで仕舞いはついに泣き寝入りサ。
西洋ではヒマワリのことを Sun−flower すなわち太陽花とも日輪花とも称えるが、それはその巨大な花を御日イサマになぞらえたものだ。明治五、六年頃に発行せられた『開拓使官園動植品類簿《かいたくしかんえんどうしょくひんるいぼ》』にはニチリンソウと書いてあり、国によっては日車の名もある。そしてその頭状花の周縁に射出する多数の舌状弁花をその光線に見立ったものだ。じつにキク科の中でこんな大きな頭状花を咲かせるものはほかにはない。
ヒマワリすなわち向日葵の花が、不動の姿勢を保って、日について回らぬことを確信をもって提言し、世に発表したのは私であった。すなわちそれは昭和七年(1932)一月二十五日発行の『植物研究雑誌』第八巻第一号の誌上で、「ひまはり日ニ回ラズ」の題でこれを詳説しておいた。そしてこの文は『牧野植物学全集』第二巻(昭和十年(1935)三月二十五日、東京、誠文堂発行)の中に転載せられている。
ヒマワリは昔に丈菊といった。すなわちそれが寛文六年(1666)に発行せられた中村|※[#「りっしんべん+昜」、第4水準2−12−60]斎《てきさい》の『訓蒙図彙《きんもうずい》』に出で、「丈菊 俗云てんがいばな文菊花一名迎陽花」と図の右傍に書いてある。
宝永六年(1709)に出版になった貝原益軒《かいばらえきけん》の『大和本草《やまとほんぞう》』には、向日葵をヒュウガアオイと書いてある。そして「花ヨカラズ最下品ナリ只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ」と出ている。これによると、益軒もまたヒマワリの花が日にしたがって回ると誤認していたことが知れる。そしてヒュウガアオイの名は向日葵の文字によって多分益軒がつくったものではなかろうかと思う。
ヒマワリの実、すなわち痩果は一花頭に無数あって羅列し、かつ形が太いからその中の種子を食用にするに都合がよい。また油も搾られる。鍋に油を布いてこの痩果を炒り、その表面へ薄塩汁を引いて食すれば簡単に美味に食べられる。
シュロと椶櫚
椶櫚はまた棕櫚と書きまた※[#「木+并」、第4水準2−14−57]櫚とも書いてある。すなわち温帯地に生ずるヤシ科すなわち椰樹科の一種で樹に雄木と雌木とがある。陳※[#「温」の「皿」に代えて「俣のつくり−口」、第4水準2−78−72]子《ちんこうし》の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』には「木高廿数丈、直ニシテ旁枝ナク、葉ハ車輪ノ如ク、木ノ杪ニ叢生ス、粽皮アリテ木上ヲ包ム、二旬ニシテ一タビ剥ゲバ、転ジテ復タ上ニ生ズ、三月ノ間木端ニ数黄苞ヲ発ス、苞中ノ細子ハ列ヲ成ス、即チ花ナリ、穂亦黄白色、実ヲ結ブ大サ豆ノ如クニシテ堅シ、生ハ黄ニシテ熟スレバ黒シ、一タビ地ニ堕ル毎ニ、即チ小樹ヲ生ズ」と書いてある。
日本のシュロは古くはスロノキといったことが深江輔仁《ふかえのすけひと》の
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