ッの家の庭に一叢の南天が繁っていて、その叢中にこの一本の巨幹が交っていた。そこで早速その持主に乞うてこれを伐り東京の我が家に携へ帰って、今日なお秘蔵しているものである。これぞすなわち、今私の知り得る範囲では最大な南天の巨材である。
 京都の嵯峨に佐野藤右衛門という植木屋の老人があって、植木のことには誠に堪能であった。そして特別にサクラを愛して多くの種類を園中に蒐めていた。あるとき巨大に成長した南天の話をしたら、この老人のいうには、南天の種子を極めて大量に蒔いて沢山にその苗を仕立ててみると、その中には群を抜いて特に大形に育ち来るものが一、二本はある。総じて南天は叢生する天性があるのだが、この大きくなる苗は常に一本立ちになっているとのことであった。

  屋根の棟の一八

 一八とはイチハツの当字で、イチハツとは鳶尾《エンビ》で、鳶尾とは紫羅襴《シララン》で、紫羅襴とは紫蝴蝶《シコチョウ》で、紫蝴蝶とは扁竹《ヘンチク》で、扁竹とは Iris tectorum Maxim[#「Maxim」は斜体]. で、それはアヤメ科の一花草で、中国の原産で、往時同国から日本に渡ったもので、今日、日本では鑑賞花草としてよく人家の庭に栽えられてある宿根草であるが、もとより日本には野生はない。
 このイチハツは日本で名づけた俗名でありながら、今のところその語原が不明である。茎の頂に花が一つずつひらくから、それで一発の意味だとこじつけられないことはない。だがこのズドンと撃った一発は的をはずれ、それは無論勝ち星が得られないこと受け合いだろうが、また世間にはまぐれ当りということもある。
 方々を歩いてみると、往々このイチハツを藁屋根の棟に密に列植してあるのを見かけるが、その紫|葩《はな》を飜えす花時にはすこぶる風流な光景を見せている。吾らはこのイチハツがナゼそんなところに栽えてあるのか不審に思うのだが、しかしそれには理由がある。すなわちそれは強風で家の棟が取られないために屋脊を保護してあるのである。今ならトタン板を利用するところだが、昔日本には無論そんな気の利いた材料がなかったので、そこで天然物でこれをおおいイチハツの根でしっかりと押えつけたものであるところに面白味がある。今朝見れば夕べの風で棟が禿げ大事のイチハツどこへ風が飛ばしたか、その補充でこの家の主人思わん仕事がまた一つ殖えたわけだ。風め! しょうがないなあとつぶやく。
 この学名の Iris tectorum Maxim[#「Maxim」は斜体]. の tectorum は「家根ノ」あるいは「家屋ニ成長シテイル」との意味である。この種名はこの学名の命名者マキシモウィチ(Maximowicz)氏が日本で家根のイチハツを望み見て名づけたものである。そしてその研究命名の材料の一つは横浜付近で得たのだから、多分それは程ヶ谷町(保土ヶ谷町)で採ったのであろう。そして同地では今日でもなおイチハツの藁葺屋根が残っている。
 中国の書物の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』にある紫羅襴(イチハツ)の文中に「性喜[#(コノム)][#二]高阜墻頭[#(ヲ)][#一]種[#(レバ)]則易[#(シ)][#レ]茂[#(リ)]」とあるところをみれば、同国でも高い阜《おか》や墻《かき》の背に生えることがあると見える。そうするとこのイチハツはその生えているところがたとえ乾くことがあっても、それに堪え忍ぶ性質をもっていると思う。つまりその地下茎が硬質で緻密でよく水を抑留して長くその生命を保っているものとみえる。
 元禄七年(1694)にできた貝原益軒《かいばらえきけん》の『豊国紀行《ほうこくきこう》』に「別府のあたりには家の棟に芝を置いて一八と云花草をうえて風の棟を破るを防ぐ武蔵国にあるが如し、風烈しき故と云家毎に皆かくの如し」と書いてある。この紀行文は豊後別府の人森平太郎氏が昭和十四年に発行した『大分県紀行文集』に収録せられているが、この紀行文へ対して後に入れた頭注を書いた福田紫城氏の文に「鳶尾草也、大正震災前まで、東海道線平塚駅付近及び箱根山中の農家に於て、福田はしばしばこの風俗を目撃せり、別府に於ても明治十年頃までは、この古風俗を存したりと云ふ」と出ている。また益軒の『大和本草《やまとほんぞう》』にも紫羅傘[傘は棟の誤り]すなわちイチハツの条下に「民家茅屋の棟ニイチハツヲウヘテ大風ノ防ギトス風イラカヲ不破」と書いてある。
 昔の東海道筋にあたる武蔵程ヶ谷(保土ヶ谷)の藁葺の家には、その家根の棟にイチハツが栽えてあって、花時にはその花があわれにも咲いてなお昔の面影をとどめている。もしも時の進みでこの藁葺の家がなくなれば、この風景が見られなく、きのうはきょうの物語りになるのであろう。
 伊豆の湯が島(温泉場)ではこれを万年グサと呼んでい
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