ある。ゆえにこの椿はツバキと訓むよりほかにいいようはない。そしてこれはもとより字音はないはずだが、強いてこれを字音で訓みたければそれをシュンというよりほか訓みようはない。たとえその字面は中国の椿そっくりであっても、それはけっしてチンではない。ゆえにツバキのことを書いてある書物の『百椿図』とか『椿花集』とかは、これをヒャクシュンズまたはシュンカシュウいうのが本当で、今までのようにそれをヒャクチンズとかチンカシュウとか呼ぶのは全く間違いである訳だ。古来どんな人でも一向にこの点に気がつかず、その間違いを説破した者が一人もないとはどうしたもんだ、オカシナ話である。
ハギとしてある萩の字も和製字で、これは秋に盛んに花がひらくので、それで艸冠りに秋の字を書いた訳で、中国にある本来の萩の字ではない。この中国の萩は蒿(ヨモギの類)であると字典にあってハギとは何の関係もない。すなわちこれは神前に供えるからサカキに対しての榊をつくったのと同筆法である。
ノイバラの実、営実
ノイバラ(Rosa multiflora Thunb[#「Thunb」は斜体].)の実は小形で小枝端に簇集して着いていて、秋に赤熟する。採ってこれを薬用とするがその名を営実《エイジツ》といわれている。梁の陶弘景《とうこうけい》という学者は「営実[#(ハ)]即[#(チ)]薔薇[#(ノ)]子也」といっている。
明の時代の学者である李時珍《りじちん》は、その著『本草綱目《ほんぞうこうもく》』巻之十八、蔓草類なる墻※[#「くさかんむり/靡」の「非」に代えて「緋−糸」、第4水準2−87−21]《ショウビ》(薔薇)すなわちノイバラの「釈名」の項で時珍のいうには、「其子成[#(シテ)][#レ]簇[#(ヲ)]而生[#(ジ)]如[#(ク)][#二]営星[#(ノ)][#一]然[#(リ)]故[#(ニ)]謂[#(フ)][#二]之[#(ヲ)]営実[#(ト)][#一]」とある。そうするとこのノイバラの実が簇成していてそれが営星のようだから、それでその実を営実というのだとの意味である。なおこの実については時珍はその集解《しっかい》中で「結[#(ビ)][#レ]子[#(ヲ)]成[#(ス)][#レ]簇[#(ヲ)]生[#(ハ)]青[#(ク)]熟[#(ハ)]紅[#(シ)]」と書いている。
私はこの営星という星が解らなかったので、先きにこれを斬界の権威|野尻抱影《のじりほうえい》先生にお尋ねしたことがあって、同先生から丁寧な御返書を頂戴したが、今ここにはそれを省略する。
頃日友人の理学士(東大理学部、植物学出身)恩田経介君から次の書信を落手し、この営星について同君の披瀝せる見解を知ることが出来たので、ここに君の書信(昭和二十一年八月二十一日発信)の全文を披露し紹介する。
[#ここから3字下げ]
先頃参上いたしました節、ノイバラの実を営実というが、営実とは星の名から由来したものだが、営星とは、何星にあたるか、分らないとのお話を承りました、それを想い出して只今本草綱目を見ましたら
………如営星故謂之営実
とあり、営星の如くとあるから営星は紅色の星だろうと想像し、紅い星は火星[#「火星」に傍点]だろうと見当をつけ、火星は支那では何というかと調べて見ましたところ、※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑(ケイコク、よくケイワ[#「ワ」に傍点]クと誤読するものと言海にも国語大字典にもあります)[牧野いう、惑は元来漢音がコク、呉音がヲクで同音の或という字と同じくもとよりワクという字音はないのだが、我国昔からの習慣音としてこれをワクといっている。ゆえに迷惑、惑溺、惑乱、惑星は実はメイコク、コクデキ、コクラン、コクセイが本当だけれど、今これをメイワク、ワクデキ、ワクラン、ワクセイといわないと世間に通じない。また或問もワクモンとしないとコクモンでは同様通じない。またクキの茎には本来ケイという字音はなく、漢音はカウ、呉音はギヤウだけれど、今世間では日本在来の習慣に従って通常ケイと呼んでいる始末だ]というのだとあります。支那の学生辞典にも「※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑《けいわく》行星名即火星也」とあり、日本の模範英和辞典にも Mars の訳に※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑、火星とあります。それで※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]の字を康熙字典《こうきじてん》で見ますと※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]のところに、※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑、星名………察剛気以処、※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑亦作営とあり、営のところに
前へ
次へ
全91ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング