花を開くアヤメでなければ「しほらしや」が利かない。しかしそうするとこのアヤメが果たして真菰の中に生えていてもよいものかどうかの問題となるが、アヤメは元来乾地生で実際水中には生えないから、この点でこの謡は落第する。もしこのアヤメを昔のアヤメ、よく和歌に詠みこまれているアヤメグサ、すなわち今のショウブ(白菖蒲、一名水菖蒲、一名泥菖蒲)とすれば、これは水生植物であるから、マコモにまじって生えていたとてなんら差し支えはないのだが、困ることにはその花はけっして「しほらしや」と謡うことが出来なく、恐ろしく陰気でグロ(grotesque)であるのである。アチラ立つればコチラが立たず両方立つれば身が立たずの俗謡のようなジレンマに陥る。がしかしこのさいはそんな理屈ばった科学的な解釈をよけ、むつかしい見方をせずに、マコモの中でしほらしくアヤメ(Iris 属[#「属」に「ママ」の注記])の花が咲いているとこれまで通り通俗に解し裁判も執行猶予にしておけば、野暮にもならず物騒にもならずにすんで、やはりこの俚謡は情趣的によいことになる。「あんまりにアラを捜せば無風流」。
潮来《いたこ》町(昔は潮来《いたこ》を板子《いたこ》と書いた)は常陸|行方《なめかた》郡の水郷で、霞ヶ浦からの水の通路北利根川にのぞみ、南は浪逆《なさか》浦を咫尺《しせき》の間に見る地である。昔は遊郭妓樓の艶めかしい三弦の音を聞きかつ聴きして、白粉の香にむせぶ雰囲気中に遊蕩する粋な別天地であったが、星移り物換った今日ではもはや往きし昔の面影もなく、ただゆかしい名を永く後の世に留めているにすぎない。その時分に婀娜《あだ》な妓の可愛らしい朱唇から宛転たる鶯の声のようにほとばしり出て、遊野郎や、風流客を悩殺せしめた数ある謡の中には次のようなものがあった。
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君は三夜《さんよ》の三日月さまよ、宵にちらりと見たばかり
恋にこがれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ螢が身を焦がす
恋の痴話文《ちわぶみ》鼠に引かれ、鼠捕るよな猫欲しや
染めて悔しい藍紫も、元との白ら地がわしや恋ひし
日暮れがたにはたゞ茫然《ぼんやり》と、空を眺めて涙ぐむ
行くも帰るも忍ぶの乱だれ、限り知られぬ我が思ひ
余り辛さに出て山見れば、雲の懸からぬ山はない
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はじめに出した「潮来出島の真菰の中であやめ咲くとはしほらしや」の中にあ
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