撥陵遠征隊
服部之総

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)剛愎《ごうふく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大立物|大院君《たいいんくん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
−−

「攘夷」は幕末日本の専売ではない。シナの方がもっと大規模でも深刻でもあった。そして朝鮮をこの点でシナや日本から区別するものがあるとしたら、明治八年までこの国だけは、断然攘夷戦勝国として、いい気持でふんぞり反えれたという点であろう。もっとも近代朝鮮の排外スローガンに「夷倭」とならべ記したのから弁じて、「攘夷」を欧米人に限られたことがらと見れば、明治八年日本に屈服したことなんか当然問題外となって、朝鮮はおよそ攘夷で負けた歴史を持たぬことになる――まことに大日本帝国にとっては、「併合」するに恥かしからぬ国柄であった!
 朝鮮攘夷運動の大立物|大院君《たいいんくん》は、摂政として全実権を収めていたから、幕末の副将軍家|水戸斉昭《みとなりあき》の比ではなかった。摂政となって二年目(一八六六)、当時潜入中の仏人天主教宣教師十二名中九名を断首して、剛愎《ごうふく》な排外主義の火蓋を切った。
 同様のことは十七年前にもあって、およそ十八世紀末以降の朝鮮西教史は、保護者フランスの面目丸つぶれといった形だったが、一八六六年(慶応二)といえば、日本もシナもちょっと対外問題が収まった閑時だったから、朝鮮国王をフランス皇帝の保護下におきキリスト教徒たらしめる旨を前もってシナに宣言したうえで、七隻のフランス艦隊が江華島《こうかとう》に攻め寄せた。かろうじて朝鮮を脱出した三名の仏人宣教師が、この「聖戦」の案内役として先頭に立ったのはいうまでもない。
 ところが、下関《しものせき》戦争ではさすがの武士道国民に物もいわせなかった近代的軍隊も、一つは安心していたせいもあるが、結局八百名の朝鮮虎手の旧式火繩銃にのされ[#「のされ」に傍点]てしまった。虎は一発勝負だ。八百発のねらい撃ちである。正規兵の代りに全朝鮮の虎猟師を駆集めたなぞは、楠正成《くすのきまさしげ》そこのけの戦術家だった。
 腰を据えて再征すれば、今度は虎手八千名をもってしても、結果は知れたものだったろうが、翌年は安南《あんなん》に兵を動かさなければならなくなり、日本の内乱も、英国とにらみ合って監視する必要がある。そのうち普仏戦争、そして、パリ・コンミューン。ゼスイットをお先棒に使ったルイ十四世以来のフランス植民政策は、焼《やき》の廻ったナポレオン三世に踏襲されて朝鮮で最後の実を結ぼうという瞬間に、虎手八百で躓《つまず》いたばかりに永遠に駄目になったのだから、この戦、偶然の勝利とはいえ決定的な勝利になった。
 地獄に堕ちたように悲嘆した者に、ふたたび今は上海租界《シャンハイそかい》にあじきない日を送っている三名の仏人宣教師と、これを取巻く数名の朝鮮人信者とがあった。仏人宣教師の一人をアベ・フェロン師という。

 同じ一八六六年には、米国船との間にも事が起った。米国スクーナー「サープライズ」号は、朝鮮近海で難破したが、風の吹廻しか親切に救助され(日本では難破米船員はみんな牢屋にぶちこんだうえでオランダに渡したが)、そのまま義州越しにシナに渡されて、無事に帰った。ところがその翌月、大同江《だいどうこう》をぐんぐん遡《さかのぼ》って、平壌《へいじょう》に迫った米船「ジェネラル・シャーマン」号は、むろん朝鮮人にとっては船の英米を弁じる由もなかったけれども、たしかに妙な船だった。船籍は米船だが、英商船の傭船として芝罘《チーフ》から商品を積んできたものとも記されており、多量の武器弾薬を備えていたところから、平壌の古墳発掘を目的とした略奪船ともあとで噂された。とにかく平和な船だけではなかった。自分の方から手出しをして、平壌の官吏を人質にとる。上陸して略奪する。ところが、虎手八百の代りに今度は大同江の水が減って、船がエンコしてしまった。大同江が洪水中だった事実を知らずにいい気になって遡行《そこう》したのが手落だったのだ。えたりと朝鮮側は東洋的戦術で、河上から火をかけた筏《いかだ》を流してシャーマン号を焼払い、乗組員を虐殺または投獄した。
 つづく一八六七・八両年にわたって二回、シャーマン号事件の米国調査隊が派遣されるけれどもいっこう要領をえない。そのうち、朝鮮国は前記二事件にたいする謝罪および賠償のため仏米両国に使節を派遣する意志をもっている、両国政府は果してこれを受理するかどうか、内意をたしかめるため二人の特使が上海に来ている――という報告を、上海米国総領事セワードにもたらした者に、F・B・ジェンキンスというのがある。文献によってはたんに米人冒険者といいあるいは米国市民とのみ記すが、「前米国領事館通訳官、幼少からシナ語を習得して、書くこともできた」というのが本当らしい。
 総領事セワードはジェンキンスの報告に基づいて、本国政府に、自己を朝鮮開国交渉特使に任ぜられたいと禀請《りんせい》した。折返し本国政府からの訓令で、全権として在北京米国公使ロウを任命し、国威を示すに足る艦隊を付属するということになった。朝鮮でフランスは失敗している、英国は文句をつけたくも手がかりがない、北ドイツ連邦は、二年前にできたばかりでまだ極東政策を確立していない。いまこそ米国が対朝条約のイニシアチヴをとらなければならない。米国としては一方サープライズ号救助の感謝、他方シャーマン号事件の糺明、恩威ならび行うための口実に事を欠かないのだから――内訓はこうした意味を伝えていた。とかくするうち、朝鮮にとって三度目の、実に怪しからぬ洋夷事件が起った。
 一八六八――李太王《りたいおう》五年四月十七日、一隻の黒船が、忠清《ちゅうせい》道|牙山《かざん》湾の行担《ハンタン》島に投錨した。そこから小艇に乗換えて插橋川《そうきょうせん》を遡行し、九万浦《きゅうまんほ》付近で上陸した洋夷の一隊は、自ら俄羅斯《オロス》国(ロシア)軍隊と揚言しつつ、忠清道|徳川《とくせん》郡|伽洞《かどう》にある大院君の父王、南延君球《なんえんくんきゅう》の陵に向った。
 守衛および伽洞民衆は逃散してしまう。洋夷は王陵の発掘をはじめたが、どうしたわけか中途でやめて、行担島へ引揚げたのが四月二十日(旧暦)。
 入違いに忠清監司|閔致痒《みんしよう》が軍隊を率いて徳川に馳行する。洋夷は船を行担島からさらに江華島南方の東検《とうけん》島に移して、上陸、ここで朝鮮軍隊と衝突して敗走した。
 大院君摂政時代にはいって三度目の勝利である。永宗僉使《えいそうせんし》申考哲《しんこうてつ》がこの戦勝を京城《けいじょう》に報告した文中に「…………傷《きずつ》く者はなはだ衆《おお》し。溺水《できすい》して死する者|的数《てきすう》を知らず。故にあえて枚陳せず。ただ二賊首をもって東門に斬懸し、もって賊衆を威す!」とある。二賊首はすぐさま京城に送られ、改めて軍民に梟示《きょうじ》して、おおいに戦勝を祝賀した。
 五月になって、この撥陵遠征隊事件が、がぜん上海租界の大問題となった。殺された「二賊首」というのは――ついでながら、溺死者確数を知らずは、デマで、遠征隊の死者はこの二人以外にはなかったが――たまたまマニラ人で、傭兵として遠征隊に加わった者だった。その方面から事件がバレて、正式にスペイン領事から、上海の米・仏・独領事にたいして交渉がはじまった。遠征隊の指導責任者として、上海在住の米仏独三国市民の名が、挙がっていたからである。
[#ここから1字下げ]
北ドイツ連邦市民、ユダヤ人、商人、エルンスト・オッペルト。主謀者。
フランス人、天主教朝鮮布教師、アベ・フェロン。案内者。
アメリカ市民、F・B・ジェンキンス。金方。
[#ここで字下げ終わり]
 目的は、朝鮮某王陵を発掘して宝物と遺骸を奪い、これにたいする身代金を要求するにあったというのである。
 米国総領事セワードはやむなくジェンキンスを拘引した。拘引理由は「合衆国が条約関係を結んでいない国土に対する不法にして破廉恥《はれんち》なる遠征ならびに暴行の廉《かど》により」というのだった。どうして仏独よりも先に米国側が問題になったのか、ともかく仏独両国領事裁判の結果を見たうえで処置するということになったから、それだけジェンキンスの公判は、センセイショナルなものになった。
[#ここから1字下げ]
「解剖のためとか、科学上の目的とか、いうならまだしもだが、金のため、身代金欲しさにやったというんだから……」
「さよう。船には北ドイツ連邦の国旗を掲げていたそうじゃありませんか? いっそ質屋の戸口にぶら下っている、れいの三つの金の玉印を、堂々おったてて行くんでしたね!」
[#ここで字下げ終わり]
 いずれは、食いつめた植民地インテリ同志の、会話だったんだろうが、「三国三教(ユダヤ教、ジェスイットおよびプロテスタント)、いずれもこの遺骸|劫掠《ごうりゃく》遠征隊中に代表されたれば、真にインタナショナルなる事件というべし」などという前後に、さし挾まれている、ある著者の、批評文なのだ。
 当時上海租界の「輿論《よろん》」が大体この辺だったと見ればよい。人でなしの三人に向って、思いきり唾を吐きかけてやる。そうすることによってのみ、「三国三教」――ただしユダヤ教はどうだかしらんが――の名誉と権威を救い出すことができるのだ。しかし同時に、三人はあまりに単なる「市民」でなさすぎる。ジェンキンスとセワードとの関係は、すでにわれわれが見たとおりに一通りのものではない。現在の領事裁判長はついこのほど被告の報告に基づいて米国対朝策を進言して、しかも実現の途上にあるのだ。
 フェロン師と仏国官憲との緊密な関係については繰返す必要がない。最後にオッペルトだが、彼はこの事件の「主謀者」というので、輿論は例の調子を最も露骨に示して、「ユダヤ人行商人」「ちゃち[#「ちゃち」に傍点]なハムブルグ貿易商」などと書かせている。だが彼は二年前、二本マストの外輪蒸汽船「エムペラア」号の主人となって朝鮮にゆき、漢江《かんこう》下流一帯の測量をやっている。測量が目的だったのか何が目的だったのか、例によって不明だが、ともかくそのとき、生命からがら潜んでいたフェロン師の密書をことづかって、在支仏国官憲に取次いだという因縁がある。彼とフェロンとの関係はそれ以来だ。こんなふうで指導者たる三国三教人は、いずれも在支当局者との間に、切ってもきれぬ従前からの関係があった者ばかりだ。スペイン領事からの横槍とそれに基づいた「輿論」さえなかったら、何とか無事に済んだ手合であろう。
 そのときジェンキンスの領事裁判に、「参審《アソシエート》」の一人として列席した上海在住米人の有力者A・A・ヘイーズ氏なる者が、後年ある機会にアメリカの新聞に寄せた一文を見ると、事件から正に十二年も経ったのちでありながら、いかにもさっぱりしないいい方である――
[#ここから1字下げ]
「………王陵侵掠という前代未聞の事件は、朝鮮人の攻撃に逢ってマニラ兵が死んだばかりに、ボロを出した。領民が殺害されたというので、スペイン領事が事件をセワード氏――当時の上海米国総領事――に照会する、セワード氏は早速ジェンキンスを捕縛する。四人の“参審”の一人としてこのときの領事裁判に列席した私は、事件がどんな茶番だったか、よく記憶しているが、予審で何から何まで喋《しゃべ》ったシナ人が、公判廷では牡蠣《かき》のように沈黙を守るので、参審会議を開いても判決のしようがない。とはいえ、事件を知悉《ちしつ》した者の眼からすれば、この海賊的遠征隊の暴状は、花崗《かこう》岩の霊廟を石炭ショベルで破壊せんと企てた馬鹿さ加減以上であることは、明らかであった……」。
[#ここで字下げ終わり]
「シナ人」というのは遠
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
服部 之総 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング