みとなりあき》の比ではなかった。摂政となって二年目(一八六六)、当時潜入中の仏人天主教宣教師十二名中九名を断首して、剛愎《ごうふく》な排外主義の火蓋を切った。
同様のことは十七年前にもあって、およそ十八世紀末以降の朝鮮西教史は、保護者フランスの面目丸つぶれといった形だったが、一八六六年(慶応二)といえば、日本もシナもちょっと対外問題が収まった閑時だったから、朝鮮国王をフランス皇帝の保護下におきキリスト教徒たらしめる旨を前もってシナに宣言したうえで、七隻のフランス艦隊が江華島《こうかとう》に攻め寄せた。かろうじて朝鮮を脱出した三名の仏人宣教師が、この「聖戦」の案内役として先頭に立ったのはいうまでもない。
ところが、下関《しものせき》戦争ではさすがの武士道国民に物もいわせなかった近代的軍隊も、一つは安心していたせいもあるが、結局八百名の朝鮮虎手の旧式火繩銃にのされ[#「のされ」に傍点]てしまった。虎は一発勝負だ。八百発のねらい撃ちである。正規兵の代りに全朝鮮の虎猟師を駆集めたなぞは、楠正成《くすのきまさしげ》そこのけの戦術家だった。
腰を据えて再征すれば、今度は虎手八千名をもってして
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