たっぷり五、六時間かかるとわかったとき、もはや完全に断念するほかはなかった。「遺憾千万であったが、余はフェロンに告ぐるに、既に予定の時間を超過すること十二時間に及ぶから、これ以上滞在するにおいては、余は一行の生命を保し難き旨をもってした。けだし、潮が干き終らない前に帰船するためには、即座に出発して漸《ようや》く間に会うくらいであったから」。生命あっての物種というどたん場に遭遇しては、遺骨強盗もへちまもあったものではなかった。実際、早々に引揚げてグレタ号へたどり着いた時は、もう潮は干きはじめたところで、もう四、五時間も遅れたら立派にエンコして、つぎの大潮まで一カ月は身動きがとれなかったのだ。
オッペルトの『紀行』は、つとめて一行と朝鮮民衆との間柄が平和的であった点を弁そしている。彼には、こうした弁そのための理論上の根拠があった。曰《いわ》く大院君の虐政は一般民衆の怨嗟《えんさ》の的になっている――そこで、たとえば失敗したグレタ号が大いそぎで川を下る途中でも、「人々はひどく友誼《ゆうぎ》的だった。上陸して休んでゆけと、たびたび誘われたが、この際そうするわけにもゆきかねた。段々我々の目的がわかって、憎むべき摂政その人に対する行為である点が明かになると、いたる所で人々はあからさまに、我々の失敗を悲しんでさえくれた。」同じく――これは東検島へ根拠地を移してのちの記事なのだが――「人々は我々一行の不成功を悲しみ、酒を飲んだ後なぞは、陸上だったら首が飛ぶような摂政攻撃に、花を咲かせた。なかんずく摂政が貨幣を改悪して懐を肥《こや》したはなし、あるいは人民が、必らずや外人は間もなく武装してとって返し、自分たちをこの虐政から救い出してくれるものと信じているといったはなし!」
理論は理論としておいて――この後の場合の「人々」というのがオッペルトの手記によると「役人」で、しかも大院君から一行へあてた「返翰」をもたらして、このとき東検島沖のチャイナ号へやってきた使者なのだから、事実としては、つじつまが合いかねてくる。第一「摂政に鎖国政策を抛棄《ほうき》させるための第二策[#「第二策」に傍点]」として「朝鮮文で認《したた》めて(オッペルトが)署名した」不敬きわまる手紙を大院君へ送ったのにたいして、四日目に返事が来たというさえおかしいのに、その使者が摂政の悪口をさんざんわめいたうえ、翌日東検島の官庁へオッペルト一行を招待することを申出て下船したのだ! こうした二重三重の不可能事がかりにすべてありえたとして、そしてそのいっさいが洋夷一行を黒船から陸へおびき寄せて撃つための策略に出たものとして、オッペルトの物語を合理化してやろうにも、翌日上陸後に起った「不祥事」の原因を、あくまでオッペルトは、「一行中唯一人の不徳漢たりし一外人水夫」の所為に帰している。
彼ら――オッペルト、船長、フェロン師以下――は官兵と仲よく談笑しながら「散歩」していた。その間に例の不徳漢が朝鮮人の小牛を盗んで帰ろうとしたので、朝鮮兵から射撃され、マニラ人が一人即死、一人負傷、問題の不徳漢自身も負傷のため死んだ。「マニラ人は可愛想だったが、事件の元凶たる不徳漢が所詮《しょせん》天罰を免れ能《あた》わなかったという事実は、我々一同を満足させた、小牛はいうまでもなく返却した…………」。
してみるとオッペルトは、その敵を最後まで疑ってすらみず、引懸った策略の結果をさえひたすら自己側の不徳に帰して自己を責めるほどの、善人中の善人として、いみじくも自己を画き出したものといわねばなるまい。彼の『紀行』中に出てくる悪人といっては、ただ虐政者大院君と牛泥棒の水兵あるのみで、前者にたいする王陵発掘事件も後者にたいする死の処罰も、ともに天理と世界正義の発動であり、しかもオッペルトが最後にいたって天から降ったように書加えたところによると例の牛泥棒の不徳漢は「我々の内地進入(撥陵行)を遅延させた張本人でもあった」(どこで? いかにして? はいっさい不明)というから、彼の物語は天の配剤をうまく表現した大メロドラマでもあるわけだ。
ともあれこれで、撥陵遠征隊の指揮者オッペルトと提案者フェロン師との至善至高の人格は、一応論証された形であろう。だがそれならなぜ、いま一人の大幹部――そもそもこの遠征隊の金方であり、しかもこの事件のため公判廷に立ったただ一人の幹部であった、米人ジェンキンスの人格のために、一言半句オッペルトは弁じることをしないのであるか? ジェンキンスに関しては最後にただ一回きり、しかも本名を記さずイニシァルをさえ一字動かして、「私に最も有用な援助を与えてくれたアメリカ紳士I氏」の存在を書いたのみである。
いかに巧妙に粉飾されたスキャンダルでも、金筋をたぐってゆけばその地上的本質がたあいもなく曝され
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