北太平洋横断に試練時代に、やっと航海術を習ったばかりの日本人の手で、東から西への無寄港横断が実現されたのである。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
その咸臨丸――二百五十トン――は「蒸汽船とはいえ蒸汽は百馬力ヒュルプマシーネと申して港の出入に蒸汽を焚《た》くばかり航海中は唯《ただ》風を便りに運転せねばならぬ。
二、三年前オランダから買入れ値は小判で二万五千両、……その前安政二年の頃から幕府の人が長崎に行って蘭人に航海術を伝習して、その技術も漸《ようや》く進歩したからこのたび使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海とこういう訳で幕議一決……」(『福翁自伝』)。
この時の航海のことは尾佐竹《おさたけ》氏の『夷狄《いてき》の国へ』の冒頭にくわしい。
ついでながら当時の日本の蒸汽船というのは全部で三艘、すべて幕府の軍艦になっていて、内二隻はオランダから買入れた咸臨丸と朝陽《ちょうよう》丸、他の一隻は英国女王から贈られた「エムペラア」改め蟠龍《はんりょう》丸。
幕府以外の諸侯で最初に汽船を買入れたのはその翌文久元年に薩摩が英人リンゼイから十二万ドルで買った補助機関船「イングランド」だった。白鳳《はくほう》丸と改名されて英薩戦争で英艦隊に拿捕《だほ》され焼棄された。
『近代の偉人故|五代友厚《ごだいともあつ》伝』という本を見たら、友厚が文久二年に幕府の千歳《ちとせ》丸に水夫に化けて乗込んで上海へゆき、「ふとドイツ船シャジキリー号を売却するの風聞を耳にするや……弱冠白面の身をもって、汽船八隻の船価五十万ドルを十二万五千ドルにて買収し、一躍船長となり八艘の船を引率して帰朝したりと云々」と書いてあったが、調べてみたら「シャジキリー」は「サー・ジョージ・グレイ」で、文久三年にこれと「コンテスト」と二艘合わせて十八万ドルで薩藩が購入している。
この年日本全体で七艘、総価格五十七万ドルの外船を購入したのが事実である。『偉人伝』には往々この類のでたらめが多い。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
話がそれたが、薩藩に「イングランド」を売付けた英人リンゼイの著書『一八一六から一八七四に至る商船史』には、合衆国の太平洋郵船会社の定期汽船がはじめて北太平洋を横断すべく、金門湾を解纜《かいらん》したのは一八六七年一月だったと記している。船名は
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