不明。(前文「汽船が太平洋を横断するまで」のなかで挙げた初度日米連絡就航船隊としての「チャイナ、ジャパン、アメリカ」などの船名は、リンゼイのこの書によったものである)。
 これがスタンレイ・ロージャースの近刊『太平洋』によると、一八六七年で、船は「コロラド」である。パスク・スミス氏の著書『日本における西夷』では一八六五年として書中当時の右会社就航船として挙げられた「コスタリカ、ニューヨーク、オレゴニアン」以下のなかに「コロラド」なる船名は見当らない。
 一体どれが正しいのか、――もとより船名は、維新当時の人名と同じように、勝手に変えることができるし、事実また変えられもしたであろうが――と、長い間へんに気にかかっていたのである。ところがこれも最近『福翁自伝』を読んで偶然はっきりすることができた。
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「それから慶応三年(一八六七)になってまた私はアメリカに行った。これで三度目の外国行、慶応三年正月二十三日に横浜を出帆して……この時にはアメリカと日本との間に太平洋の郵便船が始めて開通したその後で、第一着に日本に来たのが、“コロラド”という船で、その船に乗込む。
 前年アメリカに行った時には小さな船で(咸臨丸を指す――著者)海上三十七日も掛《かか》ったというのが今度のコロラドは四千トンの飛脚船《ひきゃくせん》、船中の一切万事実に極楽世界で二十二日目にサンフランシスコに着いた」。
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 まずこれでいい。ところで引続いて、
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「着《つい》たけれども今とは違ってその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬからサンフランシスコに二週間ばかり逗留《とうりゅう》して、そこで太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行って蒸汽車に乗てあの地峡を踰《こ》えて向側に出てまた船に乗《のっ》て丁度《ちょうど》三月十九日にニューヨークに着き……」。
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 私はこれを読みながら、一八五〇年にマルクスが書いた評論のことを思い合わせた。
 カリフォルニアの黄金狂時代を契機として展開された一連の事情は、「いまやニューヨークおよびサンフランシスコ、サンジュアン・ド・ニカラグア、レオン・チャグレス(パナマ地峡の向側の当時の港)およびパナマ」を新時代の世界商業および交通の重心地帯とするにいたるだろう――と彼は述べ
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