十三万頭、アルゼンチンから二百六十万頭分――換言すれば冷蔵船の出現によって濠洲以下ははじめてヨーロッパのための生肉供給所となることができたのである。
汽船はいまはあらゆる貨物を帆船から奪っていったばかりでなく、帆船時代には存在しなかった貨物を新たにつくり出しさえしたのだ。
[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]
ことのついでに日露戦争の年、一九〇五年をとってみよう。
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一八八〇 一、四五四万トン(七二・九%)
一八九〇 一、二〇二 (五四・〇%)
一九〇〇 九九九 (三八・一%)
一九〇五 九五六 (三〇・九%)
[#ここで字下げ終わり]
これは世界中の商帆船トン数と、それの総商船トン数にたいする割合であった。したがってこの数字は、平均化されている。おのおのの国についてみれば、帆船の敗退はあるいはもっと早く、あるいはもっと遅れて、起っている。英本国では一八九〇年に帆船トン数の比率は三六・八%に減っており一九〇五年には一五・六%――この年の全世界の平均比率の約半分である。
これにたいしてノールウェイでは、一九〇五年になっても五五%、ロシアでは同じく五三・六%――これらの国々は、やっと一八九〇年当時の世界的水準に、この点では、停滞していたということができる。
わが大日本帝国では――
一九〇五年の帆船トン数三三四、六八四トン、汽船トン数九三八、七八三トン。総商船トン数にたいする帆船トン数の比率は二六・三%。この年の各国平均比率三〇・九%よりいいばかりでなく、英国の一五・六、ドイツの二二・四には及ばないがフランスの四八・七、合衆国の三七%にくらべてずっといい。
もっと昔、明治二十三年、一八九〇年、世界全体としてはまだ帆船の方が多かった。英本国では帆船トン数の比率は三六・八%だった。ところが日本は、なんと、三三・八%。
けれども、同じ年、一国における汽船トン数の多さ、帆船トン数の少なさ――のトップを切っている国は、日本ではなくシナであって、曰《いわ》く二八%、一九〇五年で三〇%。
何の不思議もないはなしである。シナや日本のような東洋の君子国にとっては、汽船と同様に西洋型帆船もかつてはすべて「夷狄《いてき》」のものでしかなかったのだから。
そのかわり、いったん「西洋文明」をこの方面でも採用する段に
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