なると、鉄の船は浮ぶはずがあるまいの、なまものは汽船には積めまいの、といった苦労をはじめ、およそ「グレート・イースタアン」式の悲劇いっさい、味わう必要もなかったのである。
 ペリーの「黒船」に上下顛倒して数年たたぬうちに、幕府だけでなく薩藩その他までが、自ら黒船の所有者となり、そのなかにはペリーの旗艦「サスクハナ」にひけをとらぬ、代物《しろもの》すら見出されたというわけである。
 だが、幕末の日本軍艦の大部分は半汽走船――補助汽走船だった。汽船と帆船の混血種であり、汽船と帆船の一世紀にわたる闘争の間からさまよい出た折衷派である。

[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]

 どんな闘争でも、折衷派という奴をうみ出す。
 最初の補助汽走船はアメリカの帆船業者がつくり出した。一八四五年に補助スクリューを装備された七百トンのクリッパー「マサチューセッツ」がそれで、一等船客三十五名を収容できる優美な船だった。これをもってアメリカの船舶業者は、一八三七年以来北大西洋の旅客をかっ浚《さら》った英国のキュナード汽船に対抗しようとしたのである。そもそも最初の補助汽走船が、形式は混血種でも、けっして汽船業者の利益のためでなく、これを敵とする帆船業者の武器として発明されたという点を、銘記しておくことが必要だ。
 もっとも、生れたての汽船も、補助汽走船みたいなものだった。だが、その場合あくまで帆の方が補助機関であって、汽船が完成されるにつれて帆も帆柱もなくなってゆき、今日では、尾底骨《びていこつ》的存在にまで退化してしまった。
 いわゆる補助汽走船は、本来帆船であり、あくまで汽船に対抗するための、帆船の変形物にすぎない。だから汽船が発達して、補助の帆柱を単なる旗竿に使うようになっても、いわゆる補助汽船はけっして跡を断たなかった。失敗しても失敗してもあとからあとからできていった。没落する帆船業者の悲鳴的利害をその基礎にもっていたからであった。
 一見補助汽走船はうまくいくように思える。風のあるかぎり帆を掲げて、一文も使わず時にいいかげんな汽船以上の速力もでる。天候一変すればエンジンをかけて稼ぐから、……だから折衷主義を「日和見《ひよりみ》主義」というのである……ほぼ間違いなく予定日数を約束することもできて、汽船より安い賃銀で、汽船のもつ最大の利益――パンクチュアリティ――を大方の顧客に提供
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