一八五八年のことである。
 一八五四年に「和親」条約が成功しても太平洋に汽船が通う余裕がなかったのだから、そして、当の五八年「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだったから、結局、実は横断汽船のための和親条約をもって、単なるくどき落しの一手だったと、後世認められたからとて仕方がない。男女の間にも、よくあるやつだ。
 ところで、二年経つとアメリカの内乱である。六〇―六五年の南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米クリッパー戦は完全に英国の勝利に帰していた。the clipper race はもはや英国船同志の間で行われる例年のスポーツと化していた。そして大西洋では、最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、英国旗をなびかせていた。
 南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を勝利させた。そして帆船も汽船も鉄でつぎに鋼で造られるようになると、もう英国の重工業が物をいった。しかも六九年になると、スエズ運河が開通する。日本を開いた殊勲は米国のものだったのに、ヨコハマ当初の貿易額の八〇%は英国のものだった。
 よろよろと起ち上った拳闘選手みたいに、太平洋郵船《パシフィック・メイル
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