述べる汽船も若干入っているが、ほとんど帆船で、あり合せのいっさいの船が動員された。そのため太平洋従来の捕鯨業はぱったりになった。そのくせ金門湾には百艘以上の船が繋船されて、病院になったり倉庫になったりホテルに使われたり仮監獄にあてられたり、あるいは空しく荒廃に委されていた。船員がおさらばをきめてゴールドラッシュしたのだ。ついに船員に二百ドルの月給が支給されたが、金鉱夫になるとらくに一日三十ドルになった(もっとも物価の方も、たとえば茶、珈琲《コーヒー》、砂糖が一ポンド四ドル、靴一足四十五ドル、肝心な金掘道具の鶴嘴《つるはし》やショベルが五ドルから十五ドル、という有様だった)。
 ざっとこんな海の黄金狂時代のなかから、われわれは二つの新しい現象を見わけることができる。第一は一八四七年に創立され、四九年からニューヨーク・サンフランシスコ間の定期航路を開始した太平洋郵船《パシフィック・メイル》の汽船航路である。第二は、五〇年末からはじまったいわゆるカリフォルニア・クリッパーの帆船航路であった。
 このうち第二のものは五〇年正月のマルクスの眼には映じていなかった。その正月三十一日にロンドンで書かれたマルクスの国際評論には、四〇年代に名ばかり南太平洋岸に届いた汽船航路の西端が、堂々東太平洋中岸に延びて、近代資本主義世界を円形にすべく、対極|広東《カントン》に向って一大デモンストレーションを行っている新事態が、「アメリカの発見そのものよりも重大な結果」として分析されている。

[#7字下げ]三 マルクスの評論[#「三 マルクスの評論」は中見出し]

 本文冒頭に掲げた句をうけて、マルクスは記している。
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「三百三十年の間、太平洋に向うヨーロッパの全商業は、感心すべき気永《きなが》さであるいは喜望峯を、あるいはケープホーンを迂回《うかい》して行われてきた。パナマ地峡|開鑿《かいさく》の提案はすべてこれまで商民の偏狭な嫉妬心に妨げられて来た。
 カリフォルニア金鉱が発見されてから十ヶ月になるが、すでにヤンキーはメキシコ湾方面から鉄道と大国道と運河の工事(1)に着手した。ニューヨークからチャグレスへ、パナマからサンフランシスコへ、汽船はすでに定期航路についている。太平洋の商業はいまやパナマに集中した。ケープホーン迂回航路は古くなった。
 緯度三十度にわたる海岸、世
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