n T. Wright
船長 Watson
トン数 370
船籍及船種 American steamer
出港地 San Francisco
入港日 June 8th
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サンフランシスコの C. W. Brooks 会社の船で、合衆国政府の郵便補助金を受け、この船を最初として定期に太平洋を往復した(4)。
大洋航路で汽船が帆船に勝てるようになったのは、複式機関が応用されて(一八六五年以後)、一馬力当りの貨物庫容積、石炭一トン当りの馬力の強度がぐっと増して以来のことである。はじめて政府補助金は不必要となった。
それ以上の技術的発展、たとえば triple expansion engine などは、すべて一八八一年以降の出来事だった。一八五六年以降のお化《ばけ》が国を売り大洋航路から追われて、上海をも含めた日本沿海航路をよたよたと稼がされるようになったころ、原始的蓄積会社の観がある維新政府の支持によって、郵便汽船三菱会社は一八六五年以後の新鋭船を所有することができ、八〇年代が訪れる数年前に、すでに沿海航路から米の太平洋郵船と英の彼阿《ピーオー》を駆逐することができた。
日本郵船が早くも九〇年代に太平洋航路にゆえいを争うこととなったのをみて、何も不思議とするには当らない。日本は汽船の前史を所有しなかったからこそ、汽船の後史を先進国以上の組成において、つまり前史時代の雑物を含まない序列で、所有することをえたのである。
もとより、その歴史的機能に徹しては傍若無人の概ある維新政府が、あったればこそのはなしだ。
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(1) 米墨戦争と同時にコロン・パナマ鉄道が企画されて五五年に完成した。
運河の方は四九年に「米国太平洋大西洋運河会社」というのができて、五一年に完成した。ニカラガ国内を通ずるもので、スエズ運河開通前のいわゆる overland route に似たものだった。河と湖をつないで汽船を通じ、残りは国道で連絡した。これが完成する前はチャグレス・パナマ間の道路で連絡した。
(2) 帆船汽船ともにいれた全世界商船トン数にたいする帆船トン数の割合をみても、一八五〇年九二%、七〇年に八四%、九〇年に至って半分、一九一〇年になるとすっかり減って二一%になった。カーカル
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