一八五八年のことである。
 一八五四年に「和親」条約が成功しても太平洋に汽船が通う余裕がなかったのだから、そして、当の五八年「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだったから、結局、実は横断汽船のための和親条約をもって、単なるくどき落しの一手だったと、後世認められたからとて仕方がない。男女の間にも、よくあるやつだ。
 ところで、二年経つとアメリカの内乱である。六〇―六五年の南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米クリッパー戦は完全に英国の勝利に帰していた。the clipper race はもはや英国船同志の間で行われる例年のスポーツと化していた。そして大西洋では、最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、英国旗をなびかせていた。
 南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を勝利させた。そして帆船も汽船も鉄でつぎに鋼で造られるようになると、もう英国の重工業が物をいった。しかも六九年になると、スエズ運河が開通する。日本を開いた殊勲は米国のものだったのに、ヨコハマ当初の貿易額の八〇%は英国のものだった。
 よろよろと起ち上った拳闘選手みたいに、太平洋郵船《パシフィック・メイル》会社の「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月元旦のことだった。彼女に北太平洋最初の横断汽船たる名誉はめぐまれてなかったが、そもそも太平洋横断をはじめから予定してカリフォルニア黄金狂時代に生れ出たこの会社の船としては、彼女は初志を――あまりにも遅く!――遂げた最初のものである。
 サーヴィスは月一回、姉妹船に、China, Japan, America などがあった。いずれも図体は四千トンにちかい、しかし木造の、使い古した単式機関両輪船で、大西洋上の鉄造複式機関船にくらべてまさに前世紀の遺物である。サンフランシスコ横浜間二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日――十数年前の、米国海軍委員会報告書の予定にすら足りない!
 しからばはじめて北太平洋を横断した汽船――商船――は資料について首をひねるほど小さな船だ。370 トンと記された活字に誤がないものなら、これは内乱最中、一八六二年の米国そのものの焦燥をおよそうらさびしく象徴したものというほかはない。
 文久二年の横浜寄港船名表中に、
[#ここから3字下げ]
船名      Joh
前へ 次へ
全16ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
服部 之総 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング