い事件のあった家らしく、陰惨《いんさん》な空気が満ちていた。
「旦那、飛んだことでござんしたねえ。折角お宿退りをなすったお由利さんが、こんな不仕合わせな目にあいなさるとア、まったく夢のようだ」
「北町の親分、お察し下さいまし。半年振りで帰って来たものを一晩も、ゆっくり寝《やす》ますことが出来なかったなんて、何という因果《いんが》でございましょう」
「こんなことでしたら、帰って来てくれない方が、どんなによろしゅうござんしたろう」
源兵衛がおろおろ声になれば、お牧も一言云ったきり、その場に泣き伏していた。
「どうぞ親分。早く殺した奴を、捕えておくんなさいまし。せめて娘を、成仏《じょうぶつ》させてやりとうございまする」
「心配しなさんな。お由利さんとア小娘の時から知り合ってるおいらだ。青山小町と迄《まで》うたわれた娘を、こんな惨《むご》い目に遇《あ》わしやがった奴を、おめおめ生かしておくもんじゃねえ。それに今日は、おいらの兄貴分の、黒門町の伝七がうちへ来合わせていたのを幸い、一緒に来てもらったんだからなア」
「えッ。ではこちら様が、下谷の伝七親分さんで?……」
夫婦は驚きながら、幾度も頭を下げた。
「お忙しいところを、申し訳ございません。何分よろしく、お願い申しまする」
「いや、お役に立つかは判らねえが、こうして来るのも、やっぱり緑があるんだろうから、出来るだけは、働いてみることにしましょうよ」
伝七は四分一《しぶいち》の煙管《きせる》をつかんだまま、柔《やさ》しくうなずいた。
留五郎は死体の傍へ寄って、じっとお由利の顔を見守った。他の者も枕許を取り巻いて、カタズをのんだ。
着物から、長じゅばん、はだ着と、前をひらくと、眼に沁みるばかりの真っ白なはだが、あたかも生きているもののようにあらわれた。
「兄貴、やっぱりこれが命取りだな」
「うむ、刃物は大した切れ味だ」
こんもりと盛り上がった乳房の下を、一と刺し、キッサキが心臓に達したと見えて、衣類は朱《あけ》に染まっているが、大して苦しんだ様子もないままに息は絶えていた。
留五郎が、また元のように着物を直すと、伝七も共々片手拝みをして、源兵衛の方へ向き直った。
「旦那。それじゃゆうべの様子を、一通り聞かしてもらおう」
「はい。……お由利が帰ってまいりましたのは、丁度五ツ|時《どき》でございましたが、お光の方様へお仕え申して居ります、表使《おもてつかい》のお方とやらで、三十くらいの袖《そで》ノ|井《い》様と申すお女中衆と、鴎硯《おうせき》と申されるお坊主衆とが一しょでございました」
「その二人は、何だって来なすったんだ?」
「袖ノ井様は、百人町にお家があり、お由利とは、大層仲よくして頂いて居りましたそうで、同じように宿退《やどさが》りのお許しが出ましたのを幸い、送って行って上げようと、お立ち寄り下さいましたのでございます。……お坊主の鴎硯《おうせき》様は、お光の方様のお声掛かりで、途中を護って下さいましたので。……」
「それで、二人は、座敷へ上がったのかね」
「左様でございます。手前共でも膳の用意なども、いたして居りましたので、お二方を上席に、お由利と平太郎が並びまして、一口召し上がって頂きました」
「平太郎と云うと?……」
「同じ町内の結城屋《ゆうきや》のせがれで、お由利がお城を退りましたら、一緒にする約束になって居ります。――昨夜も呼び迎えて居りました」
「そんなら、その時にゃ、別に変わったことは、なかったんだな」
「それはもう、みんな楽しそうで、鴎硯様は、唄や手踊《ておど》りが、大層お上手でございました。さんざん笑わせて頂きましたくらいでございました」
「うむ。みんなが帰ったのは?」
「鴎硯様は、お行列のお供には、加わらなくてもよいのだと、申されて居りましたが、それでも四ツ時ごろには、駕籠でお帰りになり、暫くして、星灯ろうを見物がてら、お由利が袖ノ井様を、送って行くと申しまするので、遠くもない所でもあり、常吉をつけてやりましたが、ものの半刻《はんとき》ばかりで、お由利もかえってまいりました」
「………」
「それから親子水入らずで、いろいろと話がはずみましたが、疲れていることでもございますし明日の朝は、ゆっくり寝たいから、渡り廊下になっている、離れがいいと申しますので、ここへ寝かしましたのでございます。愚痴のようではございますが、今から思いますと、手前共の部屋へ寝かしましたら、と、そればっかりが、残念でなりません」
「旦那。大層失礼なことを、おたずねするが……」
伝七が口をはさんだ。
「平太郎さんと、お由利さんとは割《わり》ない仲になっていなすったのかね」
「いえいえ。左様なことはございません。お由利も、親の口から申しますのは、何でございますが、固《かた》い女で、平太
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