乳を刺す
黒門町伝七捕物帳
邦枝完二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陰暦《いんれき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)星|灯《とう》ろう

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     星|灯《とう》ろう

 陰暦《いんれき》七月、盛りの夏が過ぎた江戸の町に、初秋の風と共に盂蘭盆《うらぼん》が訪れると、人々の胸には言い合わせたように、亡き人懐かしいほのかな思いと共に、三界万霊などという言葉が浮いてくる。
 今宵は江戸名物の、青山|百人町《ひゃくにんちょう》の星灯《ほしとう》ろう御上覧のため、将軍家が御寵愛《ごちょうあい》のお光の方共々お成りとあって、界隈《かいわい》はいつもの静けさにも似ず、人々の往き来ににぎわっていた。
「なアお牧《まき》、お春や常吉は、まさか道草を食ってるわけじゃあるまいね、大層遅いじゃないか」
「そんなことはござんせんよ。お組頭《くみがしら》のお屋敷は、ここから五|丁《ちょう》とは、離れちゃいないんですもの。きっと将軍のお成りが、遅れているんでしょうよ」
 梅窓院の近くにある薬種問屋《やくしゅどんや》伊吹屋源兵衛の家では、大奥に奉公に上がっている娘の由利《ゆり》が、今夜は特に宿退《やどさが》りを頂けるとあって、半年振りに見る顔が待ち遠しく、先ほど妹娘のお春に、手代の常吉をつけて、途中まで迎えに出したのであったが、奥の座敷に接待の用意が出来ると、源兵衛はしびれを切らした挙句《あげく》、すでにとっぷり日の暮れた門口へと、首から先に出向いたのだった。
 ふと気がつけば、いつの間にやら女房のお牧も、源兵衛の背後に寄り添って、百人町の方角へと首を伸ばしていた。
「ねえ、旦那。今夜お由利が帰ってきましたら、平太郎さんとの話を、すっかり決めて、一日も速くお城から退《さが》るようにしたいもんですねえ」
「それはわたしも、望んでいるんだが、お由利の便りでは、上役の袖《そで》ノ|井《い》さんとやらが、可愛がって下さるとかで、急いで退りたくはないとのこと。今時の娘の心はわたしにゃ解《げ》せないよ」
「何んといっても、町家の娘が、いつまでも御奉公をしているのは、間違いの元ですよ。……そういえば、本当に遅いようですが、何か変わったことでも、あったんじゃござんせん
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