かしら?……」
 お牧の心配そうな様子に、同じ思いの源兵衛も、町の彼方《かなた》へ眼をやった。
 百人町の一帯は、どの屋敷も、高さ五、六間もある杉丸太の先へ、杉の葉へ包んだ屋根を取り付けて、その下へ灯《とう》ろうを掲げてあることとて、さながら群《むら》がる星《ほし》のように美しかった。
 明和、寛政のころまでは、江戸の民衆は、急にこぞって家毎に高灯ろうをつるして、仏を迎えたものであったが、天保の今では、まったく廃《すた》れて、寺々や吉原の玉屋|山三郎《さんざぶろう》の見世に、その面影をしのぶばかり。しかも、鉄砲組同心の住む、青山百人町だけが、いまだにそのしきたりを改めることのない珍しい情景は、江戸名物の一つとなって、盆のうちの一夜は、将軍家が組頭の屋敷を休憩所に、わざわざ駕《が》をまげるのが、長い間の慣《なら》わしになっていた。
 今宵も将軍|家慶《いえよし》は、愛妾のお光の方と共にお成りとあって、お光の方に仕えている源兵衛の娘由利も、その行列に加わったのであるが、日ごろの勤め振りにめでて、途中から実家へ帰ることを許されたとの報《しら》せが、すでにきのうの朝、伊吹屋一家を、有頂天《うちょうてん》にさせていたのだった。
 待ちかねた夫婦の前へ、いきなり闇の中から現われた常吉の声は弾んでいた。
「旦那様。おかみさんもお喜びなさいまし」
「おお、常吉か。お由利はどうした?」
「へい。今し方お行列が、遠藤様へお着きになりましたので、お嬢様にもお暇が出ました。今、あすこへおいでなさいますが、お客様が御一しょだと仰しゃいますので、一っ走り、お先へまいりました」
 そこへ、お春の持った提灯《ちょうちん》が近付いて、その灯りの中に、くっきりお由利の顔が浮かんで見えた。
 文金《ぶんきん》の高島田に、にっこりとした御殿女中の拵《こしら》えであるが、夏の名残りの化粧の美しさは、わが娘ながら、まぶしいばかりにつややかであった。
「おお、お由利……」
「よくまア帰って来ておくれだねえ」
「お父さん、おっ母さん。お達者で……」
 連れ立って帰って来た朋輩《ほうばい》らしい女中や、お茶坊主らしい人をそのままにして、小走りに進み寄った由利は、両親に手を執られて、胸が一杯になったのであろう。早くも瞼《まぶた》がぬれていた。
 お春と常吉が、由利の帰宅を報せに、見世先から駈け込んだので、伊吹屋は急に
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