《あるじ》を見ると心の中で思わず「あッ」と叫んだ。
「伝七殿と申されるか。わしは袖の父、真斎《しんさい》でござる」
床の上へ坐っているのは、業病《ごうびょう》も末になったのであろう。顔は崩れ、声は嗄《か》れて、齢さえも定かでない老人であった。
「どなたにも、お目に掛からぬのじゃが、御用の筋と聞いてお通し申した。どのようなことでござろうか」
「ほかでもござんせんが、実は、袖ノ井さんの朋輩衆《ほうばいしゅう》の、伊吹屋のお由利さんが、ゆうべ急に亡くなられましたんで、袖ノ井さんに、何かとお訊ねいたしたいと存じやして……」
「何と云われる。由利殿が亡くなられた?……あの娘御とは、殊《こと》の外《ほか》親しくいたし、昨夜もここへ見えられたが……」
「左様でござんすか。そんなに、仲よくしておいでなすったんで?……」
「左様。着る物も髪のものも、みな揃いのものを、用い居ると申して居ったが、袖が聞いたら、さだめし嘆くことでござろう」
十年の長い間、病床に引《ひ》き籠《こも》ってはいるものの、以前は松平伊予守の典医《てんい》を勤めていた真斎《しんさい》とて、その言うところは、人柄をしのばせるものがあった。
「で、お嬢様は、どちらへお出ましでござんしょう?」
「あれは、わしの使いで、四谷の親戚まで出向いたが、八ツまでには、帰って来るはずじゃ。わしで判ることは、何でも話して進ぜるが……」
「いえ、そんならまた、お帰りの時分に伺いましょう。どうぞよろしく、申し上げておくんなさいやし」
背筋《せすじ》へ水を注《そそ》がれる思いで、言葉を交わしていた伝七は、ふと気付いたことがあるままに、早々にして席を立った。
お俊の知恵
「なアお俊。柳下亭の読みものかなんかで、見たような気がするんだが、女同士が夫婦のように想い合うなんてことが、本当にあるもんなのか」
「さア、どういうもんでしょうねえ。何かあったんですか」
黒門町のわが家へ帰って来た伝七は、茶の間で、女房お俊の、茶をいれている姿を見ながら、突然言葉をかけた。
「うむ。ちょいと困ったことがあっての」
「あたしゃ、そんなことは知りませんけれど。……富本《とみもと》のお稽古《けいこ》に通ってた時分、御師匠《おしょ》さんとこへ来る羽織衆が、そんな話をしていたことがありましたよ。女芝居の一座や、女牢の中なんぞでは、女同士が言い交わし
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