いから、もういやだ」
「いけない。飲まないと、あとでお父っあんに叱られるよ」
「もうお腹は癒《なお》ったから、飲まない」
 そこへ次の間から父の咳《せき》払いが聞えた。と、その刹那、突如として京伝の指は茶碗を掴んだ。そして苦い熊の胃は、忽ち一滴も余すところなく、京伝自身の喉《のど》を通って、胃の腑へ納まったのだった。
 次の瞬間、果して父は障子を開けていた。が、茶碗の中に薬のないのを見ると、再び黙って頷いたまま、部屋の方へ戻って行った。
「兄さん」
 固く手を握りしめた弟の眼には、熱い涙が溢《あふ》れていた。同時に京伝の胸にも、深く迫る何物かが感じられた。
 いま筆硯をふところに飛出して行った弟の身の上に、十七年の歳月は夢と過ぎたが、しかも夢というには、余りに切実な思い出ではなかったか。
「あいつの心に、おれの半分でも、あの時のことが蘇《よみがえ》ってくれたら。……」
 京伝は、ひそかにこう呟《つぶや》きながら、十日近くも手にしなかった、堅い筆の穂先を噛んでいた。

        三

「ふふ、京伝という男、もうちっと気障《きざ》気たっぷりかと思ったら、それ程でもなかった。あの按配《
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