。
「その換《かわ》り、弟子にはしねえその換り、お前さんが何か書き物をしたら、見てくれろというんなら、必ず見てもあげるし、遠慮のない愚見も述べて進ぜる。が、これはどこまでも師弟の立場からではなくて、友達としてのつきあいだ。それでよかったら、気の向いた時は、いつでも遊びに来なさるがいゝ」
「何んとも恐れ入りました。では今後は、御迷惑でも、屡々《しばしば》御厄介になることゝ存じます。――そのお言葉で、馬琴、世の中が急に明るくなったような気がいたします」
「昔ッから、盲目の蟋蟀《こおろぎ》という話がある。あんまり調子付いて水瓶《みずがめ》の中へ落ちねえように気をつけねえよ」
「うふふ。――その御教訓は、いつまでも忘れることじゃございません」
馬琴は、それでも初めて、固い顔に微笑《ほほえみ》を見せた。
漸く風が出たのであろう。軒に窺《のぞ》いた紅梅の空高く、凧《たこ》の唸《うな》りが簫《ふえ》のように裕《ゆたか》に聞えていた。
二
「兄さん」
お菊が馬琴を送り出して、まだ戻って来ないうちから、そこへ這入って来たのは、弟の京山だった。
「おゝ、お前どこにいたんだ」
京伝は、自分より七つ下の、やりて婆のようにひねくれた京山を、温かい眼で見上げた。
「あっしゃア縁側にいやしたのさ」
「じゃア今の、馬琴という男を見ただろう」
「見たどころじゃござんせん。あいつのせりふ[#「せりふ」に傍点]も実アみんな聞きやしたよ」
「ほう、そうか。しかしおれもこれまで、弟子にしてくれといって来た男にゃ、勘定の出来ねえくらい会ったが、今の馬琴のような一徹な男にゃ、まだ会ったことがなかった。書いた物を見た訳じゃねえから、どうともはっきりゃアいえねえが、ありゃアおめえ、うまく壺にはまったら、いゝ作者になるだろうぜ」
「ふん、馬鹿らしい」
京山はてんから、鼻の先で消し飛した。
「何が馬鹿らしいんだ」
「だってそうじゃげえせんか。あんな鰯《いわし》の干物のような奴が、どう足掻《あが》いたって、洒落本はおろか、初午の茶番狂言ひとつ、書ける訳はありますまい。――あっしにゃ、あんな男につまらね愛想を云われて、喜んでる兄さんの気組が、いくら考えても判らねえから、そいつを聞かせて貰いにめえりやしたのさ」
「慶三郎《けいざぶろう》」
京伝はたしなめるように、弟を見守った。
「ふん」
上戸の京山は、大方縁側でゆうべの残りを、二三本空けていたのであろう。酔えば必ずする癖の上唇を頻《しき》りに舐《な》めずりながら、京伝の方へ顎を突出した。
「おめえまた、正月早々、いつもの癖が始まったな」
「癖はござんすまい。あんな干物の草稿を見てやろうなんて、つまらねえ料簡が、どこを押しゃア兄さんの肚《はら》から出るんだか、あっしゃアそいつが訊きてえだけの話さ」
「人のことを、矢鱈にくさしたがる、その癖の止まねえうちは、おめえにゃいつんなっても、ろくな物ア書けねえだろう。――なる程、あの馬琴という男ア、干物のような風采にゃ違えねえ。おいらも初手に一目見た時にゃ、つまらねえ奴が舞い込んで来たもんだと、内心腹が立ったくれえだった。だが、一言喋るのを聞いてからは、なかなかの偉物だということが、直ぐにおれの胸へ、ぴたりとやって来た。そういっちゃア可哀想だが、おめなんざ、足許へもおッ付く相手じゃねえ。この二三年面倒を見てやったら、きっと、あッと驚くような大物を、書き始めるに相違なかろう。その時になって、眼が利かなかったと、いくら悔んでも、もう間に合わねえぜ」
「冗、冗談じゃアねえや。あんな唐変木に、黄表紙が一冊でも書けたら、あっしゃア無え首を二つやりやす。――鹿爪《しかつめ》らしく袴なんぞ履きゃアがって、なんて恰好だい。そいつもまだいいが、兄さんが、何か読んだかと訊いた時の、あの高慢ちきの返事と来たら、あっしゃア向うで聞いてて、へど[#「へど」に傍点]が出そうになりやしたぜ。まず先生のお作ならから始めやがって、安永七年のお書卸しの黄表紙お花半七、翌年御出版の遊人三幅対」
「止しねえ」
「だって、この通りじゃげえせんか。天下に手前程の学者はなしと云わぬばかりの、小面の憎い納り様が、兄さんの腹の虫にゃ、まるッきり触らなかったとなると、こいつア平賀源内のえれきてる[#「えれきてる」に傍点]じゃアねえが、奇妙不思議というより外にゃ、どう考えても、考えられねえ代物でげすぜ」
「もういゝから、あっちへ行きねえ」
京伝は、危く振り上げようとした煙管を、ぐっと握りしめたまま、睨《にら》み付けるように京山を見詰めた。
「聞かねえうちア、滅多にゃこゝア動きませんよ。――あんな干物野郎が、あっしよりもずんと上の作者だといわれたんじゃ、猶更立つ瀬がありませんや。――もし嫂《ねえ》さん。使いだてしてお
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