曲亭馬琴
邦枝完二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)万年青《おもと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七草|粥《がゆ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)びいどろ[#「びいどろ」に傍点]
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        一

 きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ[#「びいどろ」に傍点]鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青《おもと》の鉢の土にまで吸い込まれていた。
 戯作者《げさくしゃ》山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》は、旧臘《くれ》の中《うち》から筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のお菊《きく》と、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩まされ続けては、流石《さすが》に夜を日に換えて筆を執る根気も尽き果てたのであろう。「松の内ア仕様がねえ」と、お菊にも因果を含めるより外に、何んとする術もなかった。
 が、松が取《とら》れたきょうとなっては、もはや来るべき友達も来尽してしまった肩脱けから、やがて版元に重ねての催促を受けぬうち、一気呵成に脱稿してしまおうと、七草|粥《がゆ》を祝うとそのまゝ、壁に「菊軒」の額を懸けた四畳半の書斎に納まって、今しも硯《すずり》に水を移したところだった。
「ぬしさん」
 障子の外から、まだ廓《さと》言葉をそのまゝの、お菊の声が聞えた。
「ほい」
 細目に開けた障子の隙間から、顔だけ出したお菊の声は、矢鱈《やたら》に低かった。
「お人が来いしたよ」
「え」
 京伝は、うんざりしたように硯の側へ墨を置いた。
「誰だい。この雪道に御苦労様な。――」
「伺うのは初めてだといいしたが、二十四五の、みすぼらしいお人でありんす」
「どッから来たといった」
「深川とかいいなんした」
「なに、深川。そいつア呆れた。――仕方がねえ。そんな遠方から来たんじゃ、会わねえ訳にもゆくめえ。直ぐに行くから、客間へ通しときな」
「会いなんすか」
「面倒臭えが、いやだともいえめえわな」
 それでも京伝は、一行も書き始めないうちでよかった、というような気がしながら、お菊が去ると間もなく、袢纏《はんてん》を羽織に換えて、茶の間兼用になっている客間へ顔を出した。
 客間の敷居際には、お菊がいった通り、無精髯を伸した、二十四五の如何にも風采の上がらない骨張った男が、襞《ひだ》切れのした袴《はかま》を胸高に履いて、つつましやかに控えていた。
「お前さんかね。わたしに用があるといいなさるなア」
 京伝の言葉は、如何にもぶっきら棒だった。
「はい、左様でございます。わたくしは、深川仲町裏に住んで居りまする、馬琴《ばきん》と申します若輩でございますが、少々先生にお願いの筋がございまして、無躾《ぶしつけ》ながら、斯様《かよう》に早朝からお邪魔に伺いました」
「どんな話か知らないが、そこじゃ遠くていけねえ。遠慮はいらないから、もっとこっちへ這入《はい》ンなさるがいい」
 相手が、風采に似気なく慇懃《いんぎん》なのを見ると、京伝もどうやら好意が湧いて来たのであろう。心もち火桶を相手の方へ押しやって、もっと近くへ寄るように勧めた。
「ではお言葉に甘えまして、お座敷へ入れさせて頂きます」
 馬琴と名乗る若者は、ここで一膝敷居の内へ這入ると、また更《あらた》めて頭を下げた。
「その頼みの筋というなア、一体どんなことだの」
「外でもございませんが、この馬琴を、先生の御門下に、お加え下さる訳にはまいりますまいか」
「やっぱりそんなことだったのか」
 何か期待していた京伝は、これを聞くと、吐き出すように失望の言葉を浴びせた。
「はい」
「はいじゃアねえよ。改まって、願いの筋があるといいなさるから、また何か、読本《よみほん》の種にでもなるような珍らしい相談でもすることかと思ったら、何んのこたアねえ、すっかり当が外れちゃった――そりゃアまア、弟子にしてくれというんなら、しねえこともないが、第一お前さん、そんな野暮な恰好をして、これまでに、黄表紙か洒落本の一冊でも、読んだことがおあんなさるのかい」
「ございます」
 馬琴は、飽くまで、石のように真面目だった。
「どんな物を読みなすった」
「まず先生のお作なら、安永七年にお書卸しの黄表紙お花半七を始め、翌年
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