気の毒だが御輿を据えて、聞かざならねえことが出来やした。ここへ一合、付けて来ておくんなせえやし」
「慶さん、何んざます」
 馬琴を戸口まで送ったまゝ、今までわざと避けていたお菊は、京山に名を呼ばれて、ぬッと丸髷《まるまげ》の顔を窺かせた。
「一合お願い申しやす」
「おほゝ、御酒でありんすか」
「左様」
「御酒なら、わたしがお酌しいす。向うのお座敷で飲みなんし」
「そうだ」と、直ぐに京伝は相槌を打った。「馬琴の座ってた後じゃ、酒を飲んでもうまくなかろう。それにおいらは、蔦屋が催促に来ねえうちに、心学早染草の、続きを書かざならねえんだ。飲みたかったら、お菊に酌をさせて、いつまででも飲んでるがいいわな」
 そういって立上ろうとした京伝の袂を、京山はしっかり掴んだ。
「兄さん。ちょいと待ってゝおくんなせえ。たった一つ、訊かしてもらいたいことがありやす」
「おめえの酔が醒めた時に、聞かしてやる」
「冗談じゃねえ。あっしゃア酔っちゃ居りやせんよ。――あの馬琴という男より、たしかにあっしの方が、作者は下でげすかい。そいつをここで、はっきり聞かして貰いてえんで。……」
「腹は一つだが、おめえはこの京伝の、義理のある弟だ、出来ることなら、嘘にも下だたアいいたかねえ。が、書いた物を見るまでもなく、おめえと馬琴とじゃ、第一心構えに、大きな違いがありゃアしねえか。これアおいらがいうよりも、おめえの肚に聞いて見たら、いっそ判りが速かろう」
 いらいらした京伝の言葉の中には、それでも皮肉に生れ付いた弟を憐れむ気持が、如何にもよく現れていた。
 が、これを聞くと同時に、京山の顔には、見る見る不快な色が濃くなって行った。
「よく判りやした。あっしゃアこれから先、あの干物の出入するこの家にゃ、我慢にもいられやせんから、あいつが来る間は、ここの敷居は跨《また》ぎますまい」
「もし、慶さん。――」
 お菊の止めるのも聞かずに、そういい切った京山は、いきなり自分の居間へ取って返して、硯と筆とを風呂敷へまるめ込むと、後をも見ずに、小庭口から、雪のおもてへと突ッ走ってしまった。
「ぬしさん。――」
 しかし京伝は、お菊の声も耳に入らぬらしく、じっと腕組したまま、おのが膝の上を凝視していた。
「ぬしさん。――」
「うむ」
「慶さんは、どこへ行きなんす」
「どこへも行きゃアしめえ」
「でも、あゝして出て行きいしたからは、滅多に帰っては来いすまい。わたしが傍に附いていながら飛んだ粗相、面目次第もありいせん」
「来たばかりのおめえが、心配するこたアありゃアしねえや。負け嫌いのくせに、本を漁ろう考えもなく、ただ酒ばかり飲んで、月日を後へ送ってる。同じくらいの年恰好でも、馬琴とは天地の相違だ。可哀想だが、ちと腹を立てさせた方が、後々の為めにもなるだろう。つまらねえ心配はやめにして、鬢《びん》の乱れでも直すがいいわな」
 京伝はことさら弱気を見せまいと、何気なくお菊にいいおいて、独り四畳半の書斎へ這入って行った。
(理太郎《りたろう》はわるきたましいにいざなはれ、よしはらへ来り、すけんぶつにてかへらんと思ひしが、仲の町の夕けしきをみてより、いよ/\わるたましいに気をうばはれ、とある茶屋をたのみて三浦屋のあやし野といふ女郎をあげてあそびけるが、たちまちたましいてんじやうへとんで、かへることをわすれ、さらに正気はなかりけり)
 草稿は、ここで筆が止っていた。
 机の前へ坐った京伝は、いきなり筆を把って、直ぐその先の文句を綴ろうとしたが、前の二三行を読み返しているうちに、雨雲のように、あとからあとからと頭に湧いて来るのは、黄表紙の文句ではなくて、今し方、腹立ちまぎれに出て行った、弟京山の身の上だった。
 いつとはなしに、曲りくねった根性に育って来た京山を思う時、常に京伝の胸に浮ぶのは、はじめて父母と共に、この銀座二丁目に移った、その翌年の正月の出来事に外ならなかった。
 京伝が十四、京山は七つだった。父の伝左衛門《でんざえもん》は、家主になった最初の新年とて、町内を回礼せねばならなかったが、従者を雇う銭がなく、それが為めに京伝は挟箱《はさみばこ》を肩にして父の後に従い、弟はまたその後について、白扇を年玉に配って歩いた。
「兄ちゃん。おいらアお腹《なか》が痛いから、もういやだ」
 十軒ばかり歩いた頃、こういって京伝を顧みた京山の眼には、涙さえ浮んでいた。
「辛抱しな。もうあと半分だ。その換り家へ帰ったら、おいらがおっかあに凧を買って貰って、揚げてやる」
「凧なんか見たかねえから、早く帰りてえ」
「おめえがいまやめると、お父っあんが困る。いい子だから、もう少し配ってくんな」
 それでもなんでも、腹が痛いといい出して京山は、何んとなだめすかしても承知する様子がなくそのうち次第に顔色が蒼ざめた京山
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