》の料理まで持って出かけて来たくれえだからの」
「おや、何んて酔狂《すいきょう》な人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――」
 そういいながら、ようやく起き上ったお近はべたり[#「べたり」に傍点]ととんび脚《あし》に坐ると、穴のあくほど歌麿の顔を見守った。
「おかしいか」
「そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、頼《たよ》りになる女じゃあないからねえ」
「うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ」
 親指の爪先《つまさき》から、弾《はじ》き落すようにして、きーんと畳の上へ投げ出した二|分金《ぶきん》が一枚、擦《す》れた縁《へり》の間へ、将棋《しょうぎ》の駒のように突立った。
「おや、それアお前さん、二分じゃないか」
 お近は手にしていた煙管《きせる》の雁首《がんくび》で、なま新らしい二分金を、手許《てもと》へ掻《か》きよせたが、多少気味の悪さを感じたのであろう。手には取らないでそのまま金と歌麿の顔とを、四分六分にじっと見つめた。
「どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか」
「さアね。大籬《おおまがき》の太夫衆《たゆうしゅう》がもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、鐘搗堂《かねつきどう》の鐘《かね》をおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、滅多《めった》に承知は出来ないからねえ」
「姐《ねえ》さん、おめえ、なかなか洒落者《しゃれもの》だの」
「おだてちゃいけないよ」
「おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、二時《ふたとき》ばかりままにさせてもらいてえのよ」
「あたしの体を。――」
「そうだ。噂《うわさ》に違《たが》わず素晴らしいその鉄砲乳が無性《むしょう》に気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえを抱《だ》いて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか」
 ぐっと一膝《ひとひざ》乗り出した歌麿の眼は、二十の男のような情熱に燃えて、ともすれば相手の返事も待たずに、その釣鐘型の乳房へ、手を触《ふ》れまじき様子だった。
「ほほほ。改《あらた》まっていうから、どれほど難《むず》かしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。二時《ふたとき》でも三時《みとき》でも、あたしの体で足《た》りる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ」
「うむ、そんなら、承知してくれるんだな」
「あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね」
「うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に別条《べつじょう》はありゃアしねえ。ただおめえに、そのまま真《ま》ッ裸《ぱだか》になってもらいてえだけさ」
「ええ裸になる。――」
「きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女に巡《めぐ》り合ったは天の佑《たす》け、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙に描《か》かしてもらいてえのが、おいらの頼みだ」
「そんならお前さんは、絵師《えかき》さんかえ」
「まアそんなものかも知れねえ」
「面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は枕絵《まくらえ》のお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ」
 しかし、そういいながらも、ぬっと立上った女は、枕屏風を向うへ押しやると、いきなり細帯をするすると解《と》いて、歌麿の前に、颯《さっ》と浴衣《ゆかた》を脱《ぬ》ぎすてた。
「さ、速《はや》くどッからでも勝手に描《か》いたらどう」
 おそらく昼間飲んだ酒の酔《よい》を、そのまま寝崩れたためであろう。がっくりと根の抜けた島田|髷《まげ》は大きく横に歪《ゆが》んで、襟足《えりあし》に乱れた毛の下に、ねっとりにじんだ脂汗《あぶらあせ》が、剥《は》げかかった白粉を緑青色《ろくしょういろ》に光らせた、その頸筋《くびすじ》から肩にかけての鮪《まぐろ》の背のように盛り上った肉を、腹のほうから押し上げて、ぽてり[#「ぽてり」に傍点]と二つ、憎いまで張り切った乳房のふてぶてしさ。しかも胸の山からそのまま流れて、腰のあたりで一度大きく波を打った肉は、膝への線を割合にすんなり見せながら、体にしては小さい足を内輪に茶色に焼けた畳表を、やけに踏んでいるのだった。
「どうしたのさ、お前さん、早く描かなきや、行燈《あんどん》の油が勿体《もったい》ないじゃないか」
 が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附《くぎづけ》にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。
「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」
 そういって女が苦笑した刹那《せつな》だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶《じだ》を顫《ふる》わせた。
「あッ。――」
「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」
「へえ。――」
 しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の閾《しきい》を跨《また》いで、路地の溝板《どぶいた》を踏《ふ》んでいた。
「か、駕籠屋《かごや》。か、茅場町《かやばちょう》だ。――」
 跣足《はだし》の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。

        三

 自分の家の畳の上に坐って、雇婆《やといばばあ》の汲《く》んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸《どうき》がおさまらなかった。
 あの顔、あの声、あの足音。――それは如何《いか》に忘れようとしても、忘れることの出来ない、南町奉行《みなみまちぶぎょう》の同心《どうしん》、渡辺金兵衛の姿なのだ。――
「つね。おもての雨戸の心張《しんばり》を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」
「はい」
「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」
 まごまごしている雇婆を急《せ》き立《た》てて、冷《ひや》のままの酒を、ぐっと一息に呷《あお》ると、歌麿の巨体は海鼠《なまこ》のように夜具の中に縮まってしまった。
「ああいやだ。――」
 もう一度、ぶるぶるッと身を顫《ふる》わせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうと努《つと》めた。が、そうすればする程、却《かえ》ってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。
「もう二度と、白洲《しらす》の砂利《じゃり》は踏《ふ》みたくねえ」
 歌麿は誰にいうともなく、拝《おが》むようにこういって、掌《て》を合せた。
 その記憶は、五十日の手錠《てじよう》の刑に遭《あ》った、あの一昨年の一件に外ならなかった。

 つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄んでくる、五月の半《なか》ばだった。前夜|画会《がかい》の崩《くず》れから、京伝《きょうでん》、蜀山《しょくさん》、それに燕十《えんじゅう》の四人で、深川|仲町《なかちょう》の松江《まつえ》で飲んだ酒が醒《さ》め切れず、二日酔の頭痛が、やたらに頭を重くするところから、おつねに附けさせた迎い酒の一本を、寝たままこれから始めようとしていたあの時、格子の手触《てざわ》りも荒々しく、案内も乞わずに上って来た家主の治郎兵衛は、歯の根も合わぬまでに、あわてて歌麿の枕許へにじり寄った。
「これはどうも。――」
 歌麿は家主の顔を見ると同時に、唯事でないのを直感したもののそれにしても何んのことやら訳《わけ》がわからず、重い頭を枕から離すと棒を呑んだように、布団の上に起き直った。
「大層お早くから、どんな御用で。――」
「歌麿さん」
 治郎兵衛は、まず改めて歌麿の名を呼んでから、ごくりと一つ固唾《かたず》を飲んだ。
「へえ」
「お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……」
「奉行所へ」
「うむ」
「何かの証人にでも招《よ》ばれますんで。――」
「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙《さしがみ》が来たんだ」
「え、あっしのことで。――」
 歌麿は、治郎兵衛の顔を見詰《みつ》めたまま、二の句がつげなかった。
「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも判《わか》らないが、お上《かみ》からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」
「――――」
「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」
「へえ。――」
 素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、悪所通《あくしょがよ》いのしたい放題《ほうだい》はしたし、普《なみ》の道楽者の十倍も余計に女の肌《はだ》を知り尽《つく》して来はしたものの、いまだ、ただの一度も賽《さい》の目《め》を争ったことはなし、まして人様の物を、塵《ちり》ッ端《ぱ》一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえまったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な莨入《たばこいれ》を、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、嫌《きら》いなところはお役所だといつも口癖《くちぐせ》のようにいっていたから察しても、大概《たいがい》その心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。
 その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きな謎《なぞ》であった。歌麿は、夢に夢見る心持《ここち》で胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。
 自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。
「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かお上《かみ》の間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人が仮《かり》にもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な者が罪に陥《おち》るようなことはありゃアしねえからのう」
 口の先では強いことをいっているものの、町役人達も、さすがに肚《はら》の中の不安は隠せなかったのであろう。同心渡辺金兵衛の迎いが、一刻でも遅いようにと、ひそかに祈る心は誰しも同じことであった。
 しかも五月の空は拭《ぬぐ》った如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよと撫《な》でていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。

        四

 それは正に、夢想《むそう》もしない罪科であった。
 両国広小路の地本問屋《じほんどんや》加賀屋吉右衛門から頼まれて大阪の絵師石田玉山が筆に成る(絵本太閤記)と同一趣向の絵を描いた、その図の二三が災《わざわい》して、吟味中《ぎんみちゅう》入牢《じゅろう》仰付《おおせつく》といい渡された時には歌麿は余りのことに、危《あやう》く白洲《しらす》へ卒倒《そっとう》しようとしたくらいだった。
 死んだような気持で送った牢内の三日間は、娑婆《しゃば》の三年よりも永かった。――その三日の間に歌麿は、げっそり[#「げっそり」に傍点]頬のこけたのを覚えた。
「これからは怖《こわ》くて、
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