歌麿懺悔
江戸名人伝
邦枝完二

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)師匠《ししょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|彫師《ほりし》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)てっぽう[#「てっぽう」に傍点]
−−

        一

「うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの」
「ところが師匠《ししょう》、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の師直《もろのお》じゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、褌《ふんどし》もしずに逃げ出して来ちまったんで。……」
「何んだって。逃げて来たと。――」
「へえ、面目《めんぼく》ねえが、あの体で責《せ》められたんじゃ命が保《も》たねえような気がしやして。……」
「いい若え者が何て意気地《いくじ》のねえ話なんだ。どんな体で責められたか知らねえが、相手はたかが女じゃねえか。女に負けてのめのめ逃げ出して来るなんざ、当時|彫師《ほりし》の名折ンなるぜ」
「ところが師匠、お前さんは相手を見ねえからそんな豪勢な口をききなさるが、さっきもいった通り、女はちょうど師匠が前に描《か》きなすった、あの北国五色墨《ほっこくごしきずみ》ン中の、てっぽう[#「てっぽう」に傍点]そっくりの体なんで。……」
「結構じゃねえか。てっぽう[#「てっぽう」に傍点]なんてものは、こっちから探しに行ったって、そうざらにあるもんじゃねえ。憂曇華《うどんげ》の、めぐりあったが百年目、たとえ腰ッ骨が折れたからって、あとへ引くわけのもんじゃねえや。――この節の若え者は、なんて意気地がねえんだろうの」
 背の高い、従って少し猫背の、小肥《こぶと》りに肥った、そのくせどこか神経質らしい歌麿《うたまろ》は、黄八丈《きはちじょう》の袷《あわせ》の袖口を、この腕のところまで捲《まく》り上げると、五十を越した人とは思われない伝法《でんぽう》な調子で、縁先に腰を掛けている彫師の亀吉を憐れむように見守った。
 亀吉はまだ、三十には二つ三つ間《ま》があるのであろう。色若衆《いろわかしゅう》のような、どちらかといえば、職人向でない花車《きゃしゃ》な体を、きまり悪そうに縁先に小さくして、鷲《わし》づかみにした手拭で、やたらに顔の汗を擦《こす》っていた。
 歌麿は「青楼《せいろう》十二|時《とき》」この方、版下を彫《ほ》らせては今古《こんこ》の名人とゆるしていた竹河岸の毛彫安《けぼりやす》が、森治《もりじ》から出した「蚊帳《かや》の男女《だんじょ》」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、鶴喜《つるき》から開板《かいはん》した「美人島田八景」に至るまで、その後の主立《おもだ》った版下は、殆ど亀吉の鑿刀《さくとう》を俟《ま》たないものはないくらいであった。
 一昨年の筆禍《ひっか》事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の豊国《とよくに》や英山《えいざん》などを、遥かに凌駕《りょうが》する羽振りを見せていた。
 きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい一九《いっく》にはいり込まれたのを口開《くちあけ》に京伝《きょうでん》、菊塢《きくう》、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の口説《くぜつ》が恋しくてたまらなくなっていた。
 そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜|浅草《おくやま》で買った陰女《やまねこ》に、手もなく敗北したという話の末、その相手が、曾《かつ》て自分が十年ばかり前に描《か》いた「北国五色墨《ほっこくごしきずみ》」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさを託《かこ》つと共に、不思議に躍る己《おの》が胸に手をやらずにはいられなかった。
「亀さん」
 しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、引《ひ》ッ吊《つ》るように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。
「へえ。――」
「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女《やまねこ》に会《あ》わせてくんねえな」
「何んですって、師匠」
 亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を菱型《ひしがた》にみはった。
「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」
「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」
「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足《た》しになりゃアしやせんぜ」
「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵《かたき》を討ってやりさえすりゃ、それだけで本望《ほんもう》なんだ」
「あっしの敵を討ちなさる。――冗《じょ》、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなす[#「こなす」に傍点]なんてことが。――」
「勝負にゃならねえというんだの」
「お気の毒だが、まずなりやすまい」
「亀さん」
 歌麿は昂然《こうぜん》として居ずまいを正した。
「へえ」
「何んでもいいから石町《こくちょう》の六《む》つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折《なおれ》だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」
 おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡《のうり》からは、亀吉の影は疾《と》うに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染《なじみ》になったのを縁に、錦絵《にしきえ》にまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎《つぼねじょろう》茗荷屋《みょうがや》若鶴《わかづる》の、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福《しあわせ》が、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を掩《おお》って来るのを覚えた。
「師匠、そいつア本当でげすかい」
「念には及ばねえよ」
「これアどうも、飛んだことになっちまった」
 亀吉は、間伸《まのび》のした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降って湧《わ》いたような結果に、寧《むし》ろ当惑の色をまざまざと浮べた。
 が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの屈托《くったく》でもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへと渦《うず》を巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、焦慮《しょうりょ》をさえ感じ始めたのであった。
「で、亀さん」
「へえ」
「女はいって、え、いくつなんだ」
「二十四だとか、五だとかいっておりやした」
「二十四五か。そいつアおつ[#「おつ」に傍点]だの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった北国五色墨《ほっこくごしきずみ》の若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ」
 歌麿の胸には、若鶴の肌が張り附きでもしているような緊張した快感が大きな波を打っていた。大方《おおかた》河岸《かし》から一筋《ひとすじ》に来たのであろう。おもてには威勢のいい鰯売《いわしうり》が、江戸中へ響《ひび》けとばかり、洗ったような声を振り立てていた。

        二

 今まで五重塔の九輪《くりん》に、最後の光を残していた夕陽が、いつの間にやら消え失せてしまうと、あれほど人の行《ゆ》き来《き》に賑《にぎ》わってた浅草も、たちまち木《こ》の下闇《したやみ》の底気味悪いばかりに陰を濃《こ》くして、襟を吹く秋風のみが、いたずらに冷々《ひえびえ》と肌《はだ》を撫《な》でて行った。
 燃えるような眸《まなざし》で、馬道裏《うまみちうら》の、路地の角に在《あ》る柳の下に佇《た》ったのは、丈《せい》の高い歌麿と、小男の亀吉だった。亀吉は麻の葉の手拭で、頬冠《ほおかぶ》りをしていた。
「じゃア師匠《ししょう》、夢にもあっしの知合《しりあい》だなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも笊屋《ざるや》の寅《とら》に聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――」
「安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちの辱《はじ》ンならア」
「ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の出幕《でまく》になったんじゃござんせんか」
「いいから置いときねえ。敵《かたき》はとってやる」
「長屋は奥から三軒目ですぜ」
「合点《がってん》だ。名前はお近《ちか》。――」
「おっと師匠、莨入《たばこいれ》が落ちやす」
 が、歌麿はもう二三歩、路地の溝板《どぶいた》を、力強く踏《ふ》んでいた。
 亀吉が頬冠りの下から、闇を透《すか》して見ている中を、まっしぐらに奥へ消えて行って歌麿は、やがて、それとおぼしい長屋の前で足を停《と》めたが、間もなく内から雨戸をあけたのであろう。ほのかに差した明《あか》りの前に、仲蔵《まいづるや》に似た歌麿の顔が、写《うつ》し絵《え》のように黄色く浮んだ。
「おや、何か御用ですかえ」
 それは正《まさ》しく、お近のお袋の声だった。
「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」
 ただそれだけいって、駐春亭《ちゅうしゅんてい》の料理の笹折《ささおり》をぶら提《さ》げた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。
「いけねえ。師匠はやっぱり慣《な》れている。――」
 茫然《ぼうぜん》と見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、嫉妬《しっと》まじりの舌打を頬冠りの中に残して、元来《もとき》た縁生院《えんじょういん》の土塀《どべい》の方へ引返した。
 中へはいった歌麿は、如才《じょさい》なく、お袋に土産物《みやげもの》を渡すが否や、いっぱしの馴染《なじみ》でもあるかのように、早くも三畳の間《ま》へ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、額《ひたい》ににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。
「お近さんは留守かい」
「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風《びょうぶ》の向うに、芋虫《いもむし》のように寝てるじゃないか」
「芋虫。――うん、こいつア恐れ入った」
 なるほど、お袋のいった通り、次の間《ま》の六畳の座敷に、二枚|折《おり》の枕屏風にかこまれて、薩摩焼《さつまやき》の置物をころがしたように、ずしりと体を横たえたのが、亀吉の謂《い》う「五色墨」なのであろう。昼間飲んだ酒に肥った己《おの》が身を持て余《あま》していると見えて、真岡《もうか》木綿《もめん》の浴衣《ゆかた》に、細帯をだらしなく締めたまま西瓜《すいか》をならべたような乳房もあらわに、ところ狭きまで長々と寝そべっている姿が、歌麿の目に映《えい》じた。
「お近さん」
「え。――」
 突然聞き馴《な》れない男の声で呼び起されたお近は、びくッ[#「びくッ」に傍点]として歌麿の顔を見つめた。
「よく内にいたの」
「お前さん、誰さ」
「ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ」
「え、あの人の伯父さんだって」
「そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来た訳《わけ》でもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ駐春亭《ちゅうしゅんてい
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング