《え》のように黄色く浮んだ。
「おや、何か御用ですかえ」
 それは正《まさ》しく、お近のお袋の声だった。
「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」
 ただそれだけいって、駐春亭《ちゅうしゅんてい》の料理の笹折《ささおり》をぶら提《さ》げた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。
「いけねえ。師匠はやっぱり慣《な》れている。――」
 茫然《ぼうぜん》と見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、嫉妬《しっと》まじりの舌打を頬冠りの中に残して、元来《もとき》た縁生院《えんじょういん》の土塀《どべい》の方へ引返した。
 中へはいった歌麿は、如才《じょさい》なく、お袋に土産物《みやげもの》を渡すが否や、いっぱしの馴染《なじみ》でもあるかのように、早くも三畳の間《ま》へ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、額《ひたい》ににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。
「お近さんは留守かい」
「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風《びょうぶ》の向うに、芋虫《いもむし》のように寝てるじゃないか」

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