さらないのは、知れきってるじゃないか」
「知っちゃアいるが、今朝《けさ》ばかりは、別だろうと思ってよ」
「そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で駈込《かけこ》んでくると、そのままあたしに床《とこ》を取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ」
「ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠に訊《き》きてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ」
亀吉の足音が、裏木戸の外へ消えてしまうと、怯《おび》えた子供のように、歌麿は夜具の襟《えり》から顔を出して、あかりを見廻した。
「びっくりさせやがる。こんなに早く来やがって。――」
のこのこと床から這《は》い出した歌麿は、手近の袋戸棚を開《あ》けると、そこから、寛政《かんせい》六年に出版した「北国五色墨《ほっこくごしきずみ》」の一枚を抜き出した。それはゆうべ会った陰女《やまねこ》のお近と寸分も違わない、茗荷屋《みょうがや》若鶴《わかづる》の姿だった。
「うむ、ひょっとするとこれやア姉妹《きょうだい》
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