かも知れねえ。――だが、あいつの肌に、まともに触《さわ》る間《ま》もねえうちに、箆棒《べらぼう》な、あんな野郎が、あすこへ現れるなんて。――」
 歌麿はそういいながら、手にした錦絵を枕許へ置こうとした。と、その瞬間、急に手先の痺《しび》れるのを感じた。
「こ、こいつア、いけねえ。――」
 しかし、その語尾は、もはや舌が剛張《こわば》って、思うようにいえなかった。
「お、つ、ね。――」
 裏返しにされた亀の子のように、歌麿の巨躯《きょく》は、床の上でじたばたするばかりだった。
「大変ですよ。お師匠さんが大変ですよ」
 おつねが、耳の遠い秀麿を、声限りに呼んでいるのを、歌麿は夢のように聞いていた。
 文化三年九月二十日の、鏡のような秋風が、江戸の大路《おおじ》を流れていた。



底本:「歴史小説名作館8 泰平にそむく」講談社
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
初出:「面白倶楽部」光文社
   1948(昭和23)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(htt
前へ 次へ
全29ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング