めて訪ねた陰女《やまねこ》の家で会ったのだった。跣足《はだし》のまま逃げた歌麿が、駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に口がきけなかったのも、無理ではなかった。
「師匠」
 昨夜の様子を、一刻も速く聞きたかったのであろう。まだ六《む》つが鳴って間《ま》もないというのに彫師《ほりし》の亀吉は、にやにや笑いながら、画室の障子に手をかけた。
「師匠。――おや、こいつアいけねえ。ゆうべのお疲れでまだ夢の最中《さいちゅう》でげすね」
 ふところから、叺《かます》と鉈豆煙管《なたまめぎせる》を取出した亀吉は、もう一度にやりと笑うと、おつねの出してくれた煙草盆で二三服立続けにすぱりすぱり[#「すぱりすぱり」に傍点]とやっていたが、頭から夜具《やぐ》を被《かぶ》った歌麿が、小揺《こゆる》ぎもしないのにいささか拍子抜《ひょうしぬ》けがしたのであろう。しばし口の中で、何かぶつぶつ呟《つぶや》くと、立って、勝手許にいるおつね婆のほうへ出かけて行った。
「おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、用達《ようたし》に行って来るぜ」
「亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きな
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