絵筆が持てなくなりやした」
出牢後、五十日間の手錠《てじょう》、家主預けときまって、再び己が画室に坐った歌麿は、これまでとは別人のように弱気になって、見舞に来た版元《はんもと》の誰彼を捕《つか》まえては、同じように牢内の恐ろしさを聞かせていたが、そのせいか「八十までは女と寝る」と豪語《ごうご》していた、きのうまでの元気はどこへやら、今は急に、十年も年を取ったかと疑われるまでに、身心共に衰《おとろ》えて、一杯の酒さえ目にすることなく、自ら進んで絵の具を解《と》こうなどという、そうした気配は、薬にしたくも見られなかった。
しとしとと雨の降る、午下《ひるさが》りだった。歌麿はいつものように机にもたれて茫然と、一坪の庭の紫陽花《あじさい》に注《そそ》ぐ、雨の脚《あし》を見詰めていた。と、あわててはいって来たおつねが、来客を知らせて来た。
「どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ」
「ですがお師匠さん、お客様は割下水《わりげすい》のお旗本《はたもと》、阪上主水《さかもともんど》様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ」
「なに、お旗本のお使いだと」
「そうでござん
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