まったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な莨入《たばこいれ》を、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、嫌《きら》いなところはお役所だといつも口癖《くちぐせ》のようにいっていたから察しても、大概《たいがい》その心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。
 その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きな謎《なぞ》であった。歌麿は、夢に夢見る心持《ここち》で胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。
 自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。
「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かお上《かみ》の間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人が仮《かり》にもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な
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