「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙《さしがみ》が来たんだ」
「え、あっしのことで。――」
 歌麿は、治郎兵衛の顔を見詰《みつ》めたまま、二の句がつげなかった。
「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも判《わか》らないが、お上《かみ》からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」
「――――」
「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」
「へえ。――」
 素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、悪所通《あくしょがよ》いのしたい放題《ほうだい》はしたし、普《なみ》の道楽者の十倍も余計に女の肌《はだ》を知り尽《つく》して来はしたものの、いまだ、ただの一度も賽《さい》の目《め》を争ったことはなし、まして人様の物を、塵《ちり》ッ端《ぱ》一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえ
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